「若槻禮次郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎家族・親族: 典拠調整
典拠調整
120行目:
[[松江藩]]の下級[[武士]]([[足軽]])奥村仙三郎、クラの次男として生まれる。
 
実母クラは禮次郎が3歳の頃急死した。この頃長男の譲は、父・仙三郎とともに藩命で[[京都]]に近い淀川沿いの山崎で勤務をしていたので、奥村家では11歳のイワが3歳の礼次郎の世話をしながら[[内職]]をし、かつ留守番を務めていた<ref name=sa173>[[豊田穣]]著『宰相・若槻礼次郎-ロンドン軍縮会議首席全権』173頁</ref>。
 
奥村家は[[足軽]]の中でも格式の低い家で、[[雑賀町]]の中央に近いところに家を構えることもできず、場末ともいうべき外(はず)れの方の[[借家]]に住んでいたが、礼次郎が生まれてから間もなく父仙三郎は西田中というところに小さな家を新築した<ref>[[豊田穣]]著『宰相・若槻礼次郎-ロンドン軍縮会議首席全権』173頁< name=sa173/ref>。
 
奥村家は極めて貧乏だったため、[[内職]]のようなことをして、ようやく生活していた。幼少の頃はまだ[[苗字帯刀|帯刀]]であり、[[木刀]]一本腰に差して[[寺子屋]]に通った<ref>若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「私の幼少の頃はまだ[[苗字帯刀|帯刀]]であった。私は数え年七つの時、[[寺子屋]]に入ったが一本を腰に差して通ったことを覚えている。しかし、それは抜けない[[木刀]]であった」という</ref>。
240行目:
:若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「この奥村の家は、家族の続柄が非常に複雑であった。[[戸主]]が二人の男の児を残して死んだ。軽輩の[[足軽]]でも、僅かながら禄を貰っている。しかし[[戸主]]が死んで、相当な年配の子供がないと、禄を取り上げられてしまう。それで私の実父が、その未亡人の所へ聟入りし、家を継いだ。そしてその間に、私の姉と私と二人の子供が生まれた。ところが私の実母は、私の三つの時に亡くなり、父は後添えの妻を貰った。幼年の私は、専らこの[[継母]]と年上の姉に育てられた。父違いの兄たちは、十以上も歳が違う。私は実母の顔を覚えていない。」という。
* 父・'''仙三郎'''(松江藩の[[足軽]])
:真面目な努力家であるほかに[[酒豪]]としても聞こえていた。明治35年(1902年)10月没<ref>豊田『宰相・若槻礼次郎』173頁。< name=sa173/ref>。
* 実母・'''クラ'''(袖山庄右衛門の娘)
:クラは奥村柳右衛門の後妻であった。柳右衛門との間に[[奥村譲|譲]](ゆずる)を生み、柳右衛門の死後、[[養子]]にきた仙三郎との間にイワと礼次郎を生んだ<ref name=sa172>豊田『宰相・若槻礼次郎』172頁。</ref>。