削除された内容 追加された内容
「出典」(ソース)と「注釈」(補足説明)を分ける。
1行目:
{{出典の明記|date=2015年7月}}
 
'''砂子義一'''(すなこ よしかず、[[1932年]][[9月23日]] - )は、元[[レーシングライダー]]、元[[レーシングドライバー]]。一時は「砂子晴彦」の名でレースに出場していた。
 
6 ⟶ 8行目:
 
== 2輪時代 ==
台湾の高雄で生まれ、神戸や大阪で育った。[[1951年]]に高校を卒業後、[[スミタ]](東京都墨田区に本社があった2輪車メーカー)の大阪支社に就職し、エンジンの組み立てに従事する。その後、スミタの経営が悪化し、[[1955年]]に創業したばかりのヤマハの大阪代理店に転職<ref group="注釈">2輪誌『[[モーターサイクリスト]]』([[八重洲出版]])記者の薦めだったという。</ref>。静岡のヤマハ本社の製造ラインに応援に駆り出され、ひょんなことから本社テストライダーと競争して勝ったことから、ヤマハのレースチームに加わったという。
 
[[1956年]]、第4回[[富士登山レース]]<ref group="注釈">[[富士山]]の登山道(一般道)を封鎖して行われたヒルクライム。当時は[[浅間火山レース]]と並んで、2輪の大レースだった。</ref>250ccクラス優勝。
 
[[1957年]]、第2回[[浅間火山レース]]250ccクラス2位。
16 ⟶ 18行目:
[[1962年]]、ヤマハが世界GPレース参戦を中断。
 
[[1963年]]、ヤマハが世界GPレースに再参戦。オランダGP250ccクラス4位、ベルギーGP250ccクラス2位<ref group="注釈">優勝は砂子と同じヤマハワークスライダーで、天才と評された[[伊藤史朗]]。</ref>。
 
== 4輪時代 ==
[[1963年]]末、ヤマハワークスの同僚である[[伊藤史朗]]、[[大石秀夫]]とともにプリンス自動車と契約し、4輪に転向する<ref group="注釈">プリンスとの契約の話は、ヨーロッパで2輪世界GPに参戦中、伊藤史朗が砂子らに持ち込んだという。伊藤はプリンスと契約したものの、実戦には出場しなかった。</ref>。
 
[[1964年]]4月の[[1964年日本グランプリ (4輪)|第2回日本グランプリ]]で4輪レースにデビュー。[[プリンス・スカイライン]]GT(いわゆるスカG)に乗りGT-IIクラスで2位(優勝は純レーシングマシンに近い[[ポルシェ・904]])<ref group="注釈">砂子と同じプリンスワークスの[[生沢徹]](3位)が一時ポルシェを抜き、いわゆる「スカイライン伝説」が生まれたレースとしても有名。</ref>。スカイライン1500でT-Vクラス4位。
 
[[1965年]]前後は「砂子晴彦」と改名してレースに出場<ref group="注釈">1964年に生まれた息子の智彦の発育がいまひとつだったため、元気に育つよう願かけの意味で改名したという。</ref>。同年8月のKSCC1時間でスカイラインGTに乗り3位。
 
[[1966年]]、日本初の本格的[[プロトタイプレーシングカー]]である[[プリンス・R380]]に乗り、同年5月の[[1966年日本グランプリ (4輪)|第3回日本グランプリ]]で優勝。宿敵というべき[[ポルシェ・906]]を破り、1964年の第2回日本グランプリの雪辱を果たした。同年8月にプリンスと日産が合併し、両社のワークスチームも合併。砂子は以後、日産ワークス(一軍のいわゆる[[追浜ワークス]])のドライバーとして活躍する。
 
[[1967年]]5月、[[1967年日本グランプリ (4輪)|第4回日本グランプリ]]に[[日産・R380]](改良型のA-2)で出場し3位<ref group="注釈">プリンスを離脱しポルシェ・906でプライベート出場した[[生沢徹]](優勝)と、日産R380に乗る[[高橋国光]](2位)の激しい競り合いで有名なレース。</ref>。
 
[[1968年]]5月、[[1968年日本グランプリ (4輪)|'68日本グランプリ]]に[[日産・R381]]で出場し6位。
 
[[1969年]]5月、フジスピードカップに日産R380で出場し3位。同年10月の[[1969年日本グランプリ (4輪)|'69日本グランプリ]]では[[黒澤元治]]とペアで[[日産・R382]]でエントリーしたが<ref group="注釈">耐久レースに近い長丁場のため、ドライバー交替が認められていた。</ref>、砂子は決勝は走っていない(黒澤が1人でレースを走りきり優勝)。
 
[[1970年]]11月、鈴鹿自動車レース大会にスカイライン2000GT-Rで出場し3位。
44 ⟶ 46行目:
プリンスと契約し2輪から4輪に転向した当時は、[[ヒール・アンド・トウ]](ブレーキとシフトダウンを並行してスムーズに行うテクニック)などの4輪特有の技法を知らず、プリンスの担当者がメモに「砂子、大石(秀夫)、使いものにならず」と記していたという。砂子いわく「当時の4輪は2輪より遅かったし2輪と違って転ばないので、コーナーに突っ込むだけ突っ込んでコースアウトしたりした。担当者のメモの内容に、こりゃ参ったなあと思った」などと語っている。
 
1964年の第2回日本グランプリGT-IIクラスでは、生沢徹のスカイラインGTと[[式場壮吉]]の[[ポルシェ・904]]による「スカイライン伝説」誕生エピソードが有名だが、ポルシェを抜いて一時トップに立った生沢はすぐ式場ポルシェに抜き返され<ref group="注釈">スカイラインGTが圧倒的に高性能なポルシェを抜けたのは、友人同士だった生沢と式場の間で事前に談合があったためではないかという説も存在する。</ref>、その後にプリンスの同僚の砂子にも抜かれ3位でゴール。2位になった砂子は「生沢が式場君を抜いたのを見て『プリンスが優勝だ』と喜んだが、生沢はあっさりポルシェに抜かせて、まともに追いかけなかった。生沢に『おまえが追いかけられないなら俺が行く』と何度も合図したがどかないので、仕方なくスカGをドンと当てて合図して生沢をどかせて、ポルシェを追いかけた。横から当てて押しのけたのではなく、後ろから当てて合図しただけ」などと語っている。2位の砂子は優勝した式場から10秒ほど遅れてゴールしたのに対し、3位の生沢は2位の砂子から20秒ほど遅れてゴールしている。
 
生沢との間に遺恨があるようなイメージも存在するが、1967年に日産が[[プリンス・R380|R380]]でレース出場を予定し砂子などのワークスチームをヨーロッパに派遣した際、生沢のイギリスのアパート<ref group="注釈">当時の生沢は[[フォーミュラ1|F1]]出場を目指しヨーロッパでレース活動を行っていた。</ref>に砂子を含む日産ワークス勢が宿泊したというエピソードがある。砂子は後年「(プリンス時代に)クルマでラジオを聞いていたら、生沢が乗り込んできて勝手に別の局に変えた。その時は『何だ!』と思ったが、今考えると俺と仲良くしたいという気持ちの表れだったのかなあ」と述べている。
 
1966年の日本グランプリで[[プリンス・R380]]に乗り[[ポルシェ・906]]を抑えて優勝したが、「あの年のR380はまだまだだった。ポルシェに乗っているのが[[滝進太郎]]さん(アマチュアドライバー)だったからよかったが、いいドライバーが乗っていたら勝てたかどうか。1967年の段階ならR380もポルシェに追い付いていたと思う。クニさん(高橋国光、R380で2位)は優勝した生沢([[ポルシェ・906]])より速かったから」と述べている。
 
プリンスと日産が合併した後、旧日産側のリーダー格だった[[田中健二郎]]が日産を離脱した<ref group="注釈">乗るマシンに恵まれなかったためか、プライベートチームである[[滝進太郎|タキレーシング]]に移籍。</ref>のに対し、旧プリンスワークスだった砂子は日産R380やR381などの最高峰マシンでレースに出場し続けた。
 
1970年7月の富士1000kmでスカイライン2000GT-Rに乗り2位になった際、砂子があまりペースアップしないため、ペアを組んだ後輩の[[長谷見昌弘]]から「なぜもっと(1位を)追いかけないんですか」と言われたという。砂子は「あのレースでは[[日産・フェアレディZ|フェアレディ]]240Zに勝たせるのが俺等の役割だったから」と述べている。同レースはフェアレディ240Zのデビューレースであり、[[高橋国光]]と[[黒澤元治]]の乗る240Zが優勝した。
56 ⟶ 58行目:
後年、砂子の息子の智彦(砂子塾長)がヒストリックイベントで日産R380に乗った際、「オヤジはこんな難しいマシンに乗っていたのか!」と驚いていたという。砂子自身「R380に初めて乗り、[[富士スピードウェイ]]の30度バンクの中でシフトダウンのためステアリングから手を離したら、それだけでマシンが蛇行した。それだけ敏感で難しいマシン」と語っている。
 
== 脚注出典 ==
{{Reflist}}
 
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references group="注釈" />
 
== 関連事項 ==