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Munch2015 (会話 | 投稿記録)
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第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも[[九条道房]]の娘を迎えている。道房の母は[[豊臣秀勝]]の娘である[[豊臣完子]]であり、以降の浅野宗家は[[豊臣氏]]の血を女系で受け継ぐ事になる。
 
第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の[[元禄]]14年([[1701年]])、分家の[[赤穂藩]]主・[[浅野長矩]]が[[元禄赤穂事件|刃傷事件]]を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、[[進藤俊重]]、[[小山良速]]など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の[[大石良雄]]の盟約にも切り崩しをはかり、[[進藤俊式]]や[[小山良師]]ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも討ち入りそのものの阻止は失敗した。しかし、数年後、赤穂浪士の英雄化に伴い、態度を一変させて大石良雄の三男・[[大石大三郎|大三郎]]など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。なお、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の発行が行なわれている。
 
こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・浅野吉長(綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて[[享保]]3年([[1718年]])3月に大規模な[[一揆]]にあい、失敗に終わった。なお、享保5年([[1720年]])5月に三次藩が断絶したため、享保15年([[1730年]])3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、[[新田分知]](広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。