「鈴木三樹三郎」の版間の差分

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Rokuchan66 (会話 | 投稿記録)
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[[1864年]][[10月 (旧暦)|10月]]、旧知である[[藤堂平助]]の新選組隊士募集の求めに応じ、甲子太郎や[[篠原泰之進]]らと共に[[京都]]に赴く。のち、正式に新選組に加盟する。このころ、'''三木三郎'''と称す。[[目付]]を務めた後、[[1865年]]に九番隊組長となる。
 
[[18681867年]][[3月 (旧暦)|3月]]、兄らと共に新選組から分離し、御陵衛士(高台寺党)に属す。'''三樹三郎'''や'''三木和泉'''と称する。ところが同年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]に、兄・甲子太郎が新選組によって暗殺。兄の遺体収容時に迎撃する新選組との乱闘を切り抜けて、[[加納鷲雄]]・[[富山弥兵衛]]とともに[[薩摩藩]]邸に保護された([[油小路事件]])。[[鳥羽・伏見の戦い]]では、薩摩藩の[[桐野利秋|中村半次郎]]の[[指揮 (軍事)|指揮]]下(薩摩藩一番隊)に入って[[遠国奉行|伏見奉行所]]の新選組と戦う。
 
後に東征軍の先鋒隊に合流する。[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]に結成された[[赤報隊]]では二番隊隊長を務めたが、[[相楽総三]]率いる一番隊とは袂を分かち、[[東海道]]を進軍する。相楽総三らの偽官軍事件に連座した疑惑によって入牢し、[[阿波国|阿波]][[徳島藩]]邸や阿波徳島藩[[本陣]]に[[収監|投獄]]されたあと、待遇が改善され薩摩藩預かりとなる。