「内田百閒」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
国鉄職員であった「ヒマラヤ山系」;なお国鉄側も、百{{CP932フォント|閒}}に対し新編成列車の試乗に招待する、旅先で駅長みずから歓待し宿の手配を行うなどの便宜を図っている。
94行目:
[[File:LtdExp Hato dept celemony in Tokyo Station 19521015.jpg|thumb|200px|1952年10月15日、東京駅名誉駅長を務める内田百{{CP932フォント|閒}}(左)。右隣は松井翠声([[漫談家]])]]
* 老舗の造り酒屋の一人息子であり、祖母に溺愛されて育ったこともあってか、非常に頑固偏屈かつわがままで無愛想な人物として知られ、またそのことを自認もしておりよく作品内の素材に使用した。
* 「[[官僚]]趣味」であるとも公言しており、位階勲等や規則秩序が好きであった(本人は陸軍士官学校教官時代に[[従五位]]拝受)。この好みのためか、秩序の破壊と復讐を行った[[赤穂浪士]]が大嫌いだとも書いているが、現代作家の[[丸谷才一]]は「百{{CP932フォント|閒}}は、自らを[[吉良義央|吉良上野介]]によく似た男として認識していたのではないか」と推理している。
* 持ち前のいたずらっ気や[[ユーモア]]もあって、特に[[法政大学]][[教授]]当時の教え子(なお、百{{CP932フォント|閒}}自身はこの呼称を非常に嫌っており、「学生」と呼んだ)達から慕われた。[[還暦]]を迎えた翌年から、教え子らや主治医・元同僚らを中心メンバーとして、毎年百{{CP932フォント|閒}}の誕生日である5月29日に'''摩阿陀会'''(まあだかい)という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の由来は、「百{{CP932フォント|閒}}先生の[[還暦]]はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。ここにも百{{CP932フォント|閒}}一流のユーモアと諧謔を垣間見ることができる。[[黒澤明]][[映画監督|監督]]による映画「[[まあだだよ]]」はこの時期を映画化したもの。なお、この摩阿陀会に対する返礼として、百{{CP932フォント|閒}}は自腹で'''御慶の会'''を正月三日に同じ会場([[東京ステーションホテル]]がその主な会場となった)で催した。
* 旧制岡山県立中学校(後の県立第一岡山中学校、現・[[岡山県立岡山朝日高等学校|県立岡山朝日高校]])在学当時に父の死により実家の造り酒屋が没落し、それからは生涯金銭的には恵まれなかったようである。[[第六高等学校 (旧制)|旧制第六高等学校]]([[岡山大学]]の前身校)入学時にも、生徒は原則的に全員入寮が義務づけられているのに、内田家では寮に入る金が捻出できず、学校当局の特別許可をもらって自宅から通学していたほどだった。著作には借金を主題としたものも多いが、借金の大元の原因は明らかにされていない。後年は借金手段を「錬金術」と称し、長年の借金で培われた独自の流儀と哲学をもって借金することを常としていた。「錬金帖」という借金ノートも現存している。