「柳原白蓮」の版間の差分

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'''柳原 白蓮'''(やなぎわら びゃくれん、[[1885年]]([[明治]]18年)[[10月15日]] - [[1967年]]([[昭和]]42年)[[2月22日]])は、[[大正]]から[[昭和]]時代にかけての[[歌人]]。本名は'''宮崎燁子'''(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)。[[大正三美人]]の1人。[[白蓮事件]]で知られる。
 
父は[[柳原前光]][[伯爵]]。母は前光の妾のひとりで、[[柳橋 (花街)|柳橋]]の[[芸妓]]となっていた没落[[士族]]の娘<ref group="注釈">父の[[新見正興]]は大身[[旗本]]で、[[咸臨丸]]で知られている[[1860年]]([[万延]]元年)の[[万延元年遣米使節|遣米使節団]]長であったが、[[明治維新]]直後に早世している。</ref>奥津りょう。[[東京府|東京]]に生まれた。
 
[[大正天皇]]の生母である[[柳原愛子]]の姪で、大正天皇の従妹にあたる。
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北小路家で養父の隨光により和歌の手ほどきを受ける。[[1898年]](明治31年)、13歳で華族女学校(現・[[学習院女子中・高等科|学習院女子中等科]])に入学。北小路家は経済的に苦しい事から養父母は女学校入学を渋ったが、燁子の強い願いにより、車ではなく徒歩通学を条件として実現した。同居する資武は7歳年上で[[知的障害]]があったといわれ、思春期の盛りで燁子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるう事もあった。結婚相手である事など知らなかった燁子は資武に恐怖して嫌いぬき、結婚を急がせる養父母に泣いて抗議するが、ある日資武に「お前なんか妾の子だ」と罵倒され自分の出生を知らされる。初子を実母と思い込んでいた燁子にとっては、帰る場所を失った出来事だった。[[華族令]]とそれを元に定められた柳原[[家範]]という法の管理下にある燁子に選択の余地はなく、結婚を承諾させられ、間もなく妊娠した燁子は女学校を退学した。[[1900年]](明治33年)、北小路邸で質素な結婚式が挙げられ、翌[[1901年]](明治34年)、15歳で男子([[北小路功光|功光]])を出産。
 
功光誕生の半年後、養母・久子の提案で北小路家縁の京都へ一家で引っ越す事となる。まったく友人の居ない京都での生活は、子の養育は久子に取り上げられ、幼い同級生と子供のように遊びながら家で女中に手を付ける夫とは夫婦の愛情も無く、燁子は孤独を深めるばかりであった。結婚から5年後、燁子の訴えにより事情を知った柳原家と話合いが持たれ、[[1905年]](明治38年)、子供は残す条件<ref group="注釈">男子は婚家のものであり、爵位継承に嫡男確保は重要事項であった。</ref>で離婚が成立し、20歳で実家に戻った。
 
=== 幽閉生活と女学校入学 ===
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=== 再々婚以後 ===
[[ファイル:Miyazaki Ryusuke & Akiko Family.jpg|thumb|220px|1930年(昭和5年)、燁子、蕗苳、龍介、香織]]
紆余曲折を経て、[[1923年]](大正12年)9月の[[関東大震災]]<ref group="注釈">[[墨田区]]にある[[東京都慰霊堂|東京都復興記念館]] に展示してある[[有島生馬]]の大作「大震記念」の左側に震災の中、とぼとぼ歩く白連の姿が描かれている。</ref>をきっかけに、駆け落ち騒動の最中に生まれた長男・香織と共に宮崎家の人となった燁子は、それまで経験した事のない経済的困窮に直面する。弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、宮崎家には父[[宮崎滔天|滔天]]が残した莫大な借金があった。裁縫は得意であったが、炊事洗濯は出来ない燁子に代わり、姑の[[宮崎槌|槌子]]が家事と育児を引き受けた。燁子は小説を執筆し、歌集も出版、色紙や講演の依頼も引き受け、龍介が動けなかった3年間は燁子の筆一本で家計を支えた。[[1925年]](大正14)9月、長女の蕗苳(ふき)が誕生。
 
この頃、[[吉原遊郭]]から脱出した[[花魁]]の[[森光子 (花魁)|森光子]]が宮崎家に駆け込んで助けを求めている。当初は戸惑った燁子と龍介だが、[[日本労働総同盟|労働総同盟]]の協力を得て、光子の[[自由廃業]]を手助けした。その後も娼婦の救済活動は続けられ、[[1928年]]([[昭和]]3年)にも吉原から子持ちの娼妓が宮崎家に駆け込んでいる。苦界にあった女性達に白蓮は憧れの存在であった。この活動は暴力団に狙われる危険なものであったが、燁子にはかつて伊藤家でおゆうや舟子ら同性を犠牲にした罪の意識があり、娼婦の救済はその罪滅ぼしもあったと見られる。
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* [[1967年]](昭和42)2月22日死去。(81歳)葬儀委員長は[[片山哲]]。
 
== 脚注出典 ==
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== 注釈 ==
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== 参考文献 ==