「相良実長」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
24行目:
[[明徳 (日本)|明徳]]5年([[1394年]])1月19日に父前頼と叔父3人が[[都城市|都城]]で[[島津元久]]・[[北郷義久]]の連合軍の攻撃により戦死したために急遽、家督を継いで[[人吉城]]主となった。
 
[[応永]]5年([[1398年]])、[[斯波義将]]の女婿[[渋川満頼]]が[[九州探題]]として着任して下向。[[菊池武朝]]はこれに反旗を翻して[[高瀬城 (肥後)|高瀬城]]に拠って蜂起したが、満頼と[[大友親世]]の連合に攻められて筑後に逃れた。父前頼と同じく心情的には南朝方であった実長頼茂は武朝を助力しようとしたが及ばなかった。
 
[[足利義満]]はすでに隠居して[[鹿苑院]]を名乗っていたが、相良氏を鎮撫すべく、同年9月3日、朝廷より[[綸旨]]を出させて実長頼茂を従五位下に叙して「兵庫允」に任じた。また、この時に名を頼茂から「実長」と改めている。
 
応永6年([[1399年]])、実長は[[日向国]][[真幸院]](現[[えびの市]])に出陣し、[[田之上城]](田上城)を攻めて[[畠山直顕]]の置いた城代後藤・和田らを追い落とした。