「稲荷山古墳出土鉄剣」の版間の差分

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Tenouzoku (会話 | 投稿記録)
→‎特色:  以前の投稿で誤って関係ない文章を削除したことをお詫びしたいと思う。どうしてあのような誤った編集をたした事になっているのか?当方にも不明。
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115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。
 
また1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町にある[[江田船山古墳]]からは銀象嵌の銘文を有する鉄刀が出土した。この鉄刀にも当時の大王の名が刻まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の部分も相当欠落していた。その銘文は、かつては「治天下犭复□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王([[反正天皇]])」(古事記)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。このことから、通説では5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される<ref>『詳説 日本史図録 第5版』山川出版社、2011年、p. 29。</ref>。 だが多遅比瑞歯天皇の説も未だに存在する。多遅比瑞歯天皇の名前の由来は多遅の花と美しい歯から来ており、多支鹵大王の略称は十分に考えられるからだ。 獲加については閣下や閣賀のような尊称であると考えられる。多遅比瑞歯天皇に対する敬意をここで示していると考えられる。<!--雄略天皇統治による大和の権力が九州~北関東まで及んでいたことになる、との通説(仮説1.雄略がいるか、仮説2.いたとして、雄略に該当するか、仮説3.雄略だとして支配といえるか、以上仮説の上に2つの仮説を建てている)が出来た。点(東西の古墳2箇所)から面(支配)をどう証明するか、という重大な疑問にも通説は答えていない。:要出典-->
 
== 金象嵌の材質 ==