「浪岡氏」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Manono (会話 | 投稿記録)
Manono (会話 | 投稿記録)
25行目:
[[後醍醐天皇]]の命により国司として奥州を支配した顕家の時代には、二度までも[[足利尊氏]]を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が二度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された[[吉良氏]]や[[大崎氏|斯波氏]]のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は戦国期に登場した具永(後述)以前のものは判然としてはいない。
 
当初は、南朝ゆかりの[[南部氏]]に保護されて、[[稗貫郡|稗貫]]から[[山田町|閉伊船越]]に居たようであるが、やがて三戸南部氏が[[北朝 (日本)|北朝方]]についたため、[[八戸氏|根城南部氏]]の庇護のもと、[[浪岡城|浪岡]]に入部した<ref>元中3年[[1386年]]『南朝編年紀略(彰考館文庫)』</ref>ものと推測されている。<!--浪岡町史 P264-->
 
現在の地に15世紀後半に[[浪岡城]]が築城されたとみる説<ref>『左近顕忠覚書』</ref>が多い。
北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する[[田舎郡|津軽田舎郡]]から[[外浜]]・[[西浜]]にかけて勢力を維持することとなった。
 
==戦国時代==<!--([[15世紀]]末から[[16世紀]]末)-->
また、[[京都]]の[[公家]]とたびたび交流を持ち、陸奥の地に小京都と呼ばれるほどの貴族文化を花開かせた。そして京都の[[公家]]たちとの交流が深かったことから、浪岡氏の歴代当主は[[侍従]]や[[近衛府|左中将]]など、高位の官位を歴任したと伝わる。
16世紀になってから浪岡城は拡張されて、また、16世紀中頃になると、官位獲得のため京都に使者を送り、
[[浪岡具永|具永]]・[[浪岡具統|具統]]・[[浪岡具運|具運]]三代の官途はいずれも従五位下から始まり、最盛期と考えられる具永の時代には従四位下左中将にまでいたっている。
 
弘治元年([[1555年]])、浪岡中将'''具永'''が死に、その跡を継いだ'''具運'''も、[[永禄]] 5年([[1562年]])に、所領をめぐる対立から叔父の川原御所'''具信'''と対立して、ともに戦死するところとなった'''川原御所の乱'''が発生し、この内乱を契機に浪岡北畠氏の勢力は衰退しだした。
==戦国時代==
<!--具統は具永に先立って若死したという説もある-->
16世紀前半に名君・[[浪岡具永|北畠具永]]が現れて浪岡北畠氏は全盛期を迎えたが、その子・[[浪岡具統|北畠具統]]の頃から文化面で奢侈に走ったために財政的に困窮し、次第に衰退しはじめた(なお、具統は具永に先立って若死したという説もある)。そして具統の子・[[浪岡具運|北畠具運]]の時代に一族内部で家督と領地をめぐっての抗争が勃発し、[[1562年]]に[[川原御所の乱]]が起き、具運は一族の川原御所[[北畠具信]]に殺されてしまう。これにより浪岡北畠氏の衰退は決定的となった。
 
具運後、具運の子・[[浪岡'''顕村|北畠顕村]]'''(後の具愛)を継いだぎ、檜山の下国安東愛季の娘を正室にむかえて勢力回復をはかったが、[[戦国大名]]として独立を図る[[津軽為信]]の前に敗北して、天正6年([[1578年]])<!--に攻められて領地と居城([[浪岡城]])を奪われて、ここに国司としての浪岡氏は-->滅亡した。傍系の一族が[[津軽氏]]・[[安東氏]]に仕え浪岡氏として存続したと伝わる
 
傍系の一族が[[津軽氏]]・[[安東氏]]に仕え浪岡氏として存続したと伝わる。
 
== 後裔==