「韮崎市」の版間の差分

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=== 近世 ===
近世には38か村が成立し、[[九筋二領]]では釜無川以西の20か村が巨摩郡武川筋に、釜無以東・塩川以西の10か村と塩川以東の2か村を加えた12か村が同郡逸見筋、東部の6か村が同郡北山筋に属する。全村が近世初期には[[幕府直轄領]]で、[[徳川義直]]領、[[徳川忠長]]領と変遷し、[[旗本]]領も存在した。[[甲府藩]]領を経て、[[享保]]9年([[1724年]])に甲斐一国が幕領化されると、全村が再び幕領となる。享保9年以降在方は三分代官支配となるが、市域の村々は[[甲府代官]]支配に属し、一部は[[川田代官所|川田]]・[[上飯田代官所|上飯田]]・[[市川代官所|市川]]の各代官支配に属した時期があったと考えられている。また、[[御三卿]]・田安家領も存在し、韮崎宿のある河原部村には陣屋も存在した<ref>『山梨県の地名』、p.604</ref>
[[ファイル:Tatsuoka-shougigashira.JPG||thumb|250px|龍岡将棋頭]]
市域東西は山麓・台地で乏水地帯であるため生業は[[畑作]]が中心であったが、近世には市域東部の茅が岳山麓で[[穂坂堰]]、[[楯無堰]]が、市域西部の山麓地域では[[徳島堰]]など[[用水路]]の開削が実施され、[[新田開発]]も行われた<ref>『山梨県の地名』、p.603</ref>。米麦栽培のほか、[[木綿]]や[[煙草]]の栽培も行われる<ref>『山梨県の地名』、pp.603 - 604</ref>
 
また、戦国時代末期から近世初頭にかけて治水事業が行われ、御勅使川治水では竜岡町下条南割に将棋頭が設置された<ref>『山梨県の地名』、p.604</ref>。
韮崎は甲斐、信濃、駿河を結ぶ諸街道が交差する要衝であり、河原部村には[[甲州街道]](甲州道中)や[[駿州往還]]、塩川沿いの[[佐久往還]]などの[[宿場町]]である[[韮崎宿]]が整備された。釜無川沿いには[[河原部河岸]]も設置され甲斐北西部や信濃方面からの[[廻米]]輸送も行われた。
 
韮崎は甲斐、信濃、駿河を結ぶ諸街道が交差する要衝であり、河原部村近世初頭には[[甲州街道]](甲州道中)や[[駿州往還]]、塩川沿いの[[佐久往還]]など諸街道が整備され、河原部村には[[宿場町]]である[[韮崎宿]]が整備され成立し。釜無川沿いには[[河原部河岸]]も設置され甲斐北西部や信濃方面から<ref>『山梨県[[廻米]]輸送も行われた地名』、p.604</ref>
 
釜無川沿いの河原部村舟山には、[[天保]]14年([[1843年]])に公認された[[河原部河岸]]が設置され、甲斐北西部や信濃方面からの[[廻米]](かいまい)輸送も行われた<ref>『山梨県の地名』、p.604</ref>。なお、河原部河岸の廻米輸送には釜無川下流の[[鰍沢河岸]]・[[青柳河岸]]([[富士川町]])から反発を受けた<ref>『山梨県の地名』、p.604</ref>。
 
=== 近現代 ===