「セシル・B・デミル」の版間の差分

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予想に反してこの映画がヒットし制作費を超える収益をあげた-デミルは、続けて『キング・オブ・キングス』 (1927年)、『暴君ネロ』(1932年)、『クレオパトラ』(1934年)など一連の歴史ものを制作し、次々と成功を収めていく。この頃[[マスメディア|マスコミ]]は、社内で大勢の側近を従え、[[絹|シルク]]の[[シャツ]]に[[乗馬]]用のブーツをはき(写真参考)気障に決めたスタイルのデミルを揶揄し、デミルの所属する[[パラマウント映画|パラマウント・スタジオ]]を'''「デミル[[王国]]」'''とも呼んだ。[[1927年]][[5月11日]]に設立された「[[映画芸術科学アカデミー]]」の[[映画芸術科学アカデミー#36名の創立会員|36名の創立会員]]の1人としても名を連ねている。
 
次にデミルの作風が転換したのは、西部開拓史を舞台とする作品を撮り始めた1930年代後半である。この頃の『平原児』(1937年)や『[[大平原 (映画)|大平原]]』(1939年)などの作品は、[[アジア]]や[[ヨーロッパ]]における戦雲たれ込める中、揺れ動くアメリカの世情を反映し、アメリカ国民の愛国心を鼓舞することを意図した作品群と位置付けられる。また、「老い」を迎えようとするデミルの製作姿勢の変化を印象付けた。
 
=== 晩年 ===
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*平原児 ''[[:en:The Plainsman|The Plainsman]]'' (1937) 監督・製作
*海賊 ''[[:en:The Buccaneer|The Buccaneer]]'' (1938) 監督・製作
*[[大平原 (映画)|大平原]] ''[[:en:Union Pacific (film)|Union Pacific]]'' (1939) 監督・製作
*[[北西騎馬警官隊]] ''[[:en:North West Mounted Police|North West Mounted Police]]'' (1940) 監督・製作
*絶海の嵐 ''[[:en:Reap the Wild Wind|Reap the Wild Wind]]'' (1942) 監督・製作