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茨華仙 (会話 | 投稿記録)
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岩宿遺跡は、[[赤城山]]の南東、[[渡良瀬川]]右岸地域の小残丘に立地しており、丘陵の北部は「稲荷山」、南部は「山寺山」および「金比羅山」(琴平山とも)と呼称される。稲荷山と山寺山の境をなす低い鞍部には町道が通っていたが、相沢忠洋によれば、初めて[[関東ローム層|ローム層]]<ref group="†">北関東に見られる赤土というのは、更新世に周辺の火山の噴火によって降り積もった火山灰層をいい、「関東ローム層」の別称である</ref><ref>松藤和人著 『日本列島人類史の起源 -「旧石器の狩人」たちの挑戦と葛藤-』 雄山閣 2014年 p.27</ref>中で[[打製石器]]を発見したのは、この道路の切通においてであった。相沢は当時、[[納豆]]の[[行商]]をおこないながら熱心に[[考古学]]研究にいそしんでいた。
 
[[1949年]](昭和24年)、[[杉原荘介]]の主導による[[明治大学]]の[[発掘調査]]で、切通の北側がA区、南側がB区と命名され、A区において上下2層の石器文化層が確認された。
 
下層の黒褐色層岩宿I文化(約3万年前)と呼ばれる石器群は、地表の下約1.5メートルの中部ローム最上部の暗色帯中に包含されており、楕円の形状をなす[[打製石斧]]2点の他<ref group="†">1945年9月11~13日の試掘の最終日の午後雨の中崖面を掘っていた杉原のスコップが石に当たり、カチンと音がし、両面加工の楕円家握り槌(ハンドアックス)を発掘した。</ref><ref name="iwazyu34">松藤和人・門田誠一編著 『よく分かる考古学』 [[ミネルヴァ書房]]<やわらかアカデミズム>・<わかる>シリーズ 2010年 p.35</ref>、[[掻器]]類、2次加工のある刃器状[[剥片]]、[[石核]]があり、石材には主に[[頁岩]]が認められる。同層からは多数の自然礫や[[クリ]]材の炭化物もみられた。この結果は、旧石器時代の段階における植物資源の広汎な活用を示唆する。この暗色帯の最上部には[[姶良Tn火山灰]](AT火山灰)が確認されており、このことより、岩宿I文化の年代は今から2.5万年以上前にさかのぼると考えられる。