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{{画像提供依頼|宇部護国神社に建立されている福原越後公像|date=2011年2月|cat=山口県}}
{{記事名の制約|福原元{{CP932フォント|僴}}}}
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[[嘉永]]4年([[1851年]])、家老に昇進するが、大名の子の養子先としては家格が低すぎることから<ref>[[佐世氏|佐世家]](3,997石)は[[佐々木源氏]]系の名門であるが、一門六家や永代家老と較べれば家格は高くなかった。翻って福原氏([[安芸福原氏]])は[[毛利氏]]と同じ[[大江氏|大江]][[朝臣]][[長井氏]]を祖に持つ、代々永代家老の家柄であった。</ref>、[[安政]]5年([[1858年]])に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の[[福原親俊]](伯父・[[福原房純]]の孫)の家督を継承した<ref>福原氏への転出の理由としてはもう1つ、元{{CP932フォント|僴}}自身が、当時の藩主・毛利慶親(敬親)が養嗣子としていた[[毛利定広]](のちの元徳)の実兄であったことも関係しているものと推測される。以後も国家老として藩主を補佐する立場にあった。</ref>。
[[万延]]元年([[1860年]])に
同年、[[八月十八日の政変]]で長州藩が[[京都]]から追放されると、[[元治]]元年([[1864年]])に[[来島又兵衛]]や[[久坂玄瑞]]らと協力して挙兵し、上京して[[禁門の変]]を引き起こした。元{{CP932フォント|僴}}は伏見長州藩邸に布陣した長州藩主力軍の総大将として伏見街道を進むが、途中で交戦した[[大垣藩]]勢の銃撃で負傷、敗退して帰国した<ref name=echigo>[http://ube-kankou.or.jp/ube-ishin/fukubara-echigo.html 福原越後公|宇部の幕末維新] - 宇部観光コンベンション協会</ref>。
その後、幕府による[[長州征討|第1次長州征伐]]が起こると、藩内では保守派である[[俗論党]]が主導権を掌握してしまう。元{{CP932フォント|僴}}は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、[[西郷隆盛]]の要求により[[国司親相]]・[[益田兼施]]と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、同年中に岩国の龍護寺で[[自害]]した([[享年]]50)。首級は他の家老らの共に幕府側に送られた。
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寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている<ref name=echigo />。
毛利博物館には元{{CP932フォント|僴}}が描いたとされる[[カッコウ|郭公]]の絵が残されている。元治元年に藩兵を率いて
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