「テオドラ (ユスティニアヌスの皇后)」の版間の差分

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[[Image:Meister von San Vitale in Ravenna 008.jpg|thumb|皇后テオドラ]]
'''テオドラ'''(Theodra [[500年]]頃? - [[548年]][[6月28日]])は[[東ローマ帝国]]の皇帝[[ユスティニアヌス1世]](在位:[[527年]] - [[565年]])の[[皇后]]。貧しい踊り子から皇后にまでのし上がり、夫を助けて国政に関与した。
 
== 人物・略歴 ==
テオドラは、サーカスの[[熊使い]]の娘として東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]]で生れた。成長したテオドラはサーカスの踊り子として、淫らなショーへの出演や[[娼婦]]まがいのことをして、生計を立てていたという。 1度は結婚して[[官僚]]である夫とともに[[リビア]]へ赴いたが、その地で離縁され、怪しい踊り子稼業をしながら[[アレクサンドリア]]などを経由してコンスタンティノポリスへ戻り、そこで皇帝[[ユスティヌス1世]]の甥であった[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス]]と出会った。
 
テオドラに一目ぼれしたユスティニアヌスは[[525年]]にテオドラと結婚した。本来、踊り子と[[元老院議員]]の結婚は法律で禁止されており、皇帝の後継者と踊り子との結婚にはユスティヌス1世の皇后[[{{仮リンク|エウフェミア]] (東ローマ皇后)|label=エウフェミア|en|Euphemia (empress)}}や多くの貴族が反対したが、ユスティニアヌスは叔父ユスティヌス帝を動かして法律を改正させ、結婚したのである。
 
[[527年]]にユスティニアヌスが叔父の跡を継いで皇帝に即位すると、テオドラは皇后となった。貧しい身分からたくましく生き抜いて来た女傑テオドラは、たびたび夫の助言者として国政に関与した。後世の歴史家には彼女を「女帝」と呼ぶ者さえいた。
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== 関連項目参考文献 ==
* [[東ローマ帝国]]
* [[ユスティニアヌス1世]]
* [[テオドラ]](曖昧さ回避)
 
==参考文献==
*[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書、1990年、254頁。
*井上浩一・粟生沢猛夫『世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ』[[中央公論新社]]、1998年、478頁。