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河内守護畠山氏は守護代遊佐氏が力をつけるにつれ圧迫される傾向にあったものの、守護の軍事動員権までは放棄しておらず、また[[紀伊国]]においては遊佐氏の影響を受けない一定の支配力を保っていた。このため紀伊の軍勢を率いて永禄4年([[1561年]])、[[細川晴之]]([[細川晴元]]の次男)・[[六角義賢]]と共に京都に進軍し、一時的に長慶を京都から追い出すことに成功する。永禄5年([[1562年]])3月5日には[[久米田の戦い]]で、長慶の弟である[[三好実休]]を討ち取るという大戦果を収めて、高屋城を奪還する。しかし、続く5月20日の[[教興寺の戦い]]で敗れ、河内における支配権を失い、紀伊に後退した。
 
永禄9年([[1566年]])、13代将軍・[[足利義輝]]が討たれると、義輝の実弟である[[足利義昭]](当時は義秋)を支持し、将軍にするための援助を続け、更に三好家の家中分裂が起きると[[松永久秀]]方に与する。永禄11年([[1568年]])には上洛してきた義昭および[[織田信長]]に従い、三好氏に奪われていた旧領の一部も安堵され、畠山氏の繁栄を図った。義輝の暗殺前後に家督を弟の[[畠山昭高|畠山秋高]](昭高)に譲っており、上洛後は在京している姿が記録に見える。ただ完全に隠居したわけではなく、[[元亀]]元年([[1570年]])の[[野田城・福島城の戦い]]では河内に下向して義昭・信長と戦っている。
 
なお[[遊佐信教]]・安見宗房が高政の弟・秋高(政頼)を当主に擁立し、高政を追放したという話は、弓倉弘年の指摘によると、この追放劇は『[[足利季世記]]』などの軍記物しか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。天正元年([[1573年]])に弟の畠山昭高が信教に殺されると挙兵し河内に進攻したが、敗北し紀伊に後退する。天正3年([[1575年]])に信長によって高屋城は破却された。