「小沢武雄」の版間の差分

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[[1878年]]11月、陸軍[[少将]]に進級。陸軍省第3局長、同第1局長、同総務局長、兼[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]長、陸軍[[少輔]]などを経て、[[1885年]]5月、陸軍中将となった。陸士校長、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]次長、陸軍参謀本部長、欧州出張などを経て、[[1890年]]10月、[[予備役]]に編入された。
 
[[1887年]]5月、男爵を叙爵し[[華族]]となり、[[1890年]]9月から[[1926年]]1月まで貴族院勅撰議員に在任した。[[1891年]]12月17日、舌禍事件により陸軍中将を[[諭旨]]免官となった。[[谷干城]]提出の建議案の賛成演説で、軍機遺漏があったとの理由であった<ref>東京朝日新聞1891年12月18日1面。</ref><ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|1920393/109}} 山形自由新聞、東京日日新聞 明治24年12月18日『新聞集成明治編年史第8巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。貴族院内では谷と同一行動をとった<ref>東京朝日新聞1894年3月15日1面「谷子爵一派の会合」。</ref>。
 
[[1893年]]、[[近衛篤麿]]・曾我祐準とともに[[北海道協会]]の設立発起人となった<ref>東京朝日新聞1893年3月28日1面「北海道協会発起人会」。</ref>。