「モラヴィア王国」の版間の差分

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ハドリアヌス2世じゃなくてヨハネス8世でした。。。
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== 歴史 ==
[[民族移動時代|スラヴ民族の大移動]]が発生することで[[スラヴ民族]]は続々と東欧に侵入したが、その中でもチェコ族、モラヴィア族は現在の[[モラヴィア]]、[[スロヴァキア]]方面に移動、630年ごろにはフランク人のサモが{{仮リンク|サモ王国|en|Samo's Empire}}を建国、それに従ったがこの国は658年には滅亡、サモ王国支配下にあったスラヴ民族は四散した。ただし、チェコ族、モラヴィア族は[[ゲルマン民族]]、[[アヴァール|アヴァール族]]の支配下ではあったが、この地で自立を守った<ref>[[#ボグダン(東欧史)|ボグダン(1993)、pp.38-39]]</ref>。
 
その後、ドナウ川支流モラヴァ川流域に拠点を築いていたチェコ族のうち、モイミール率いる一派が徐々に力をつけ、少なくとも822年にはモラヴィア人として[[フランク王国]]の資料に初めて登場しており、833年にはニトラの首長、プリビアを追放、モラヴィアは王国としての形を形成していった<ref>[[#薩摩(チェコ)|薩摩(2006a)、p.7]]</ref>。