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{{複数の問題|ソートキー=人1404年没
| 出典の明記 = 2012年4月
| 参照方法 = 2012年4月
| 独自研究 = 2012年4月
| 精度 = 2011年7月
}}
'''耿 炳文'''(こう へいぶん、[[1335年]] - [[1404年]])は、[[明]]初期の重臣。父は[[耿君用]]。
 
[[朱元璋]]と同郷である[[濠州]]鐘離(現在の[[安徽省]][[鳳陽県]])の出身。朱元璋とは若い頃から友人関係にあった。朱元璋が[[郭子興]]の軍に加わると、耿炳文もその軍に加わった。[[張士誠]]との戦いで活躍し、その配下武将である[[趙打虎]]や[[李福安]]を破るという功を挙げた。朱元璋が郭子興の軍を引き継ぐと彼に仕えて明建国の元勲の1人として活躍した。そのため、明朝成立後は朱元璋よりこれまでの功績を賞されて長興侯に封じられた。
 
朱元璋は[[皇帝]]になると、[[李善長]]や[[李文忠]]、[[徐達]]ら元勲を次々と粛清していくが、なぜか耿炳文は例外で処分されることは無かった。朱元璋が洪武帝になった後も対[[モンゴル]]戦や[[雲南]]遠征などで功績を挙げている。耿炳文の息子は江都郡主(後の江都公主、建文帝の嫡姉)と結婚した
 
朱元璋が亡くなり、皇太孫の[[建文帝]]が即位した。この頃にはすでに耿炳文も65歳を数える高齢だったために表舞台からは隠退していた。しかし[[1399年]]に燕王の[[永楽帝|朱棣]]が反乱を起こすと([[靖難の変]])、7月に建文帝から燕軍征討の大将軍に任命された。朱元璋時代の功臣は彼を除いて病死か誅殺されていたため、妥当な人事だった。8月12日に[[真定]]([[河北省]][[石家荘]]の東北部)まで進出し、8月15日には[[雄県]]にまで進軍するが、ここで燕軍の夜襲を受けて耿炳文軍の先鋒部隊が壊滅した。しかし耿炳文は敗軍をまとめて真定城に立て籠もって徹底抗戦する。燕軍は勝利に乗じて攻撃するも、遂に落とせず撤退した。建文帝は耿炳文の緒戦の敗退に激怒して大将軍を解任し、後任に[[李景隆]]を指名した。このことを知った燕軍は「あの老人が相手なら手強いが、これで勝ったも同然」と喜んだという。耿炳文は責任を取って再び表舞台より去った。
 
[[1402年]]に靖難の変が終わると、耿炳文はその時は罪には問われなかった。しかし2、永楽帝となった朱棣より罪を蒸し返され、一族もろとも処刑された。享年70。
 
== 参考文献 ==
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[[Category:滁州出身の人物]]
[[Category:1335年生]]
[[Category:14041403年没]]