「末松謙澄」の版間の差分

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[[豊前国]][[前田村]](後に[[福岡県]][[行橋市]])に大[[庄屋]][[末松房澄]](通称七右衛門、号は臥雲)・伸子の4男として生まれる。
 
[[慶応]]元年([[1865年]])に地元の碩学[[村山仏山]]の私塾水哉園で[[漢学]]と[[国学]]を学び、明治4年([[1871年]])に上京して[[佐々木高行]]の元へ書生として住み込み、佐々木の娘・静衛が[[グイド・フルベッキ]]の娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候となっていた[[高橋是清]]と親交を結んだ。高橋から[[英語]]を教わる代わりに漢学の教授を引き受けて互いに勉強する日々を送り、明治5年([[1872年]])に[[東京高等師範学校|東京師範学校]]([[東京教育大学]]、[[筑波大学]]の前身)へ入学した。しかし学校生活に不満を感じて同年に中退、高橋と協力して外国新聞の翻訳で生計を立てつつ[[東京日日新聞]]社へ記事を売り込み、明治7年([[1874年]])に同社の記者となり笹波萍二のペンネームで社説を執筆。同時期に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に留学していた[[箕作佳吉]]の記事を東京日日新聞に掲載させたといわれる。
 
やがて明治8年([[1875年]])に社長・[[福地源一郎]]の仲介で[[伊藤博文]]の知遇を得て[[正院]]御用掛として政府へ入り、同年の[[江華島事件]]による[[李氏朝鮮]]との交渉へ赴く[[黒田清隆]]の随行および[[日朝修好条規]]の起草に参加、帰国した翌9年([[1876年]])に[[工部省]]権少丞、明治10年([[1877年]])に[[西南戦争]]が勃発すると[[陸軍省]]出仕となり、[[山縣有朋]]の秘書官として九州を従軍、9月に[[西郷隆盛]]へ宛てた降伏勧告状を起草した。同年[[太政官]]権少書記官に転じたのもつかの間、翌明治11年([[1878年]])に[[イギリス帝国|イギリス]]留学を命じられ、駐在日本公使館付一等書記官見習となって[[2月10日]]に渡欧、[[4月1日]]に[[ロンドン]]へ到着、外交官として赴任することになった<ref>松村、P7 - P10、P39、P53 - P56、P240 - P244、P305 - P306、臼井、P546、小山、P134 - P135、伊藤、P159。</ref>。
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イギリス滞在中はしばらく公使館に勤務していたが、歴史の勉強に集中するため明治13年([[1880年]])12月に依願免官、翌明治14年([[1881年]])10月から[[ケンブリッジ大学]]へ入学した(箕作佳吉の兄[[菊池大麓]]の紹介があったとされる)。留学中は[[ラテン語]]・[[ギリシャ語]]が課題の試験勉強に苦しみ、留学費用を賄うため[[三井財閥]]からの借金と[[前田利武]]の家庭教師代で悪戦苦闘していたが、明治17年([[1884年]])5月に法律の試験に合格、12月に[[学士(法学)|法学士]]号を取得して卒業した。在学中は文学活動が顕著で、明治12年([[1879年]])に「[[義経=ジンギスカン説]]」を唱える論文『義経再興記』をイギリスで発表し、日本で大ブームを起こす。また明治15年([[1882年]])に最初の「[[源氏物語]]」の英訳を書いたり、イギリス詩人の詩を多数邦訳したりしている。
 
[[第1次伊藤内閣]]・[[鹿鳴館]]時代の明治19年([[1886年]])に日本へ帰国、伊藤の意向を受けて[[歌舞伎]]の近代化のため福地源一郎・[[外山正一]]と共に[[演劇改良運動]]を興し、[[明治天皇]]の歌舞伎見物([[天覧歌舞伎]])を実現させた。明治21年([[1888年]])に法学修士号を取得、同年から明治23年([[1890年]])の2年がかりで[[バーサ・クレイ]]の『ドラ=ソーン』を翻訳、『谷間の姫百合』と題して発表。明治22年([[1889年]])4月に伊藤の次女・生子と結婚。この間[[文部省]][[参事官]]、[[内務省 (日本)|内務省]]参事官、内務省県治局長を歴任、明治23年の[[第1回衆議院議員総選挙]]で福岡県から当選して[[衆議院]]議員となり政界入りした。[[大成会]]、[[中央交渉会]]に属し政治姿勢は政府寄りの立場を取った。
 
明治25年([[1892年]])に[[第2次伊藤内閣]]が成立すると伊藤の引き立てで[[内閣法制局長官|法制局長官]]に就任、在任中の明治28年([[1895年]])に[[男爵]]に叙せられ、翌明治29年([[1896年]])に互選で[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員となった。同年に法制局長官を辞任するも明治31年([[1898年]])の[[第3次伊藤内閣]]で[[逓信省|逓信大臣]]になり、明治33年([[1900年]])に伊藤が創立した[[立憲政友会]]へ入会、同年に成立した[[第4次伊藤内閣]]の[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]を歴任した。辞任後は明治29年から[[毛利氏]]および家政を統括していた[[井上馨]]の依頼で、[[長州藩]]の歴史を調べ毛利氏の歴史編纂事業を開始したが、他藩出身であったことと[[山路愛山]]・[[笹川臨風]]・[[堺利彦]]・[[斎藤清太郎]]ら新規採用組も長州藩士でなかったため長州藩出身者から嫌われ、井上に更迭された前総裁の[[宍戸たまき|宍戸璣]]が新聞に更迭された不満を暴露した記事が掲載されるなど編纂事業は凍結、[[日露戦争]]開始による新たな任務遂行のため一時中断となった<ref>松村、P39 - P40、P53 - P69、P306 - P310、臼井、P546、小山、P135 - P147、伊藤、P229、P309 - P310、P393、P438、P444。</ref>。
 
明治37年([[1904年]])に日露戦争が勃発すると、伊藤を含めた政府・[[元老]]達からヨーロッパに対する日本の立場を説明し好意的な世論形成、および日本への悪感情を和らげるため[[黄禍論]]の拡大防止を含めた広報活動を命じられ、宣戦布告した[[2月10日]]に[[カナダ]]・アメリカ経由で渡欧([[2月24日]]に伊藤から同様の命令を受けた[[金子堅太郎]]が渡米)、3月にイギリスに到着すると広報を開始、イギリス・[[フランス]]を主として戦争に対する日本の弁護論と偏見に対する反論演説を展開した。明治38年([[1905年]])までに黄禍論は沈静化したことを政府に打電しつつ、なおもヨーロッパに留まり新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、明治39年([[1906年]])1月にフランスを出発して2月に帰国、海外の功績を認められ3月に[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]、翌明治40年([[1907年]])に海外の功績を認められ子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれた。
 
明治44年([[1911年]])、中断していた毛利氏歴史編纂事業が[[明治維新]]全体の歴史を纏めた一級資料『[[防長回天史]]』として初版脱稿された。[[ローマ法]]も研究するようになり大正2年([[1913年]])に『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法提要』、大正4年([[1915年]])に『ガーイウス羅馬法解説』『ウルピアーヌス羅馬法範』を翻訳・刊行した。大正9年(1920年)9月に『防長回天史』修訂版を脱稿するが、10月5日、[[スペイン風邪]]に罹患したことが原因で死去。[[享年]]65。子が無かったため、甥の[[末松春彦|春彦]]が爵位を相続した<ref>松村、P11 - P51、P250 - P285、P310 - P317、霞会館、P768、臼井、P546、小山、P224 - P225、伊藤、P486 - P487。</ref>。
 
墓は[[東京都]][[品川区]]北品川4丁目の[[清光院]]、[[法名]]は蓮性院殿古香青萍大居士。
 
== 栄典・授爵 ==
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== 関連項目 ==
* [[日英関係]]
* [[太陽 (博文館)]]
* [[法典調査会]]
 
 
== 外部リンク ==