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m 奈良女子師範学校は奈良県女子師範学校を指すので、現在の奈良女子大学ではなく奈良教育大学にあたります。
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* 1533年(天文2年)[[奈良]]転害郷(現[[奈良市]]手貝町)の[[塗師]]松屋久政によって起筆され、久好、久重の3代にわたって1650年(慶安3年)まで書き継がれた茶会記『松屋会記』に記された[[茶道|茶会]]の[[食材]]と[[料理]]の中に、「チサ汁」「汁 <sub>チサ</sub>」が多数見られる<ref>千宗室編纂、[[永島福太郎]]解題 『茶道古典全集』第9巻、淡交新社、1957年(昭和32年)11月20日。</ref>。
* [[宇陀松山]](現[[奈良県]][[宇陀市]])の[[本草学者]]、森野藤助(1690年-1767年)が、晩年に[[写生]]した[[薬草]]の[[図鑑]]『松山本草』の中に、「細葉萵苣 チシヤ」の絵がある<ref>高橋京子著 [http://www.osaka-up.or.jp/books/ISBN978-4-87259-462-1.html 『森野藤助賽郭真写「松山本草」―森野旧薬園から学ぶ生物多様性の原点と実践―』] 大阪大学出版会、2014年2月19日、ISBN 978-4-87259-462-1。</ref>。
* 1940年頃に、[[奈良師範学校#奈良県女子師範学校|奈良県女子師範学校]](現[[奈良女子教育大学]])生徒の[[副食|副食物]]を調査した『郷土食の研究(奈良県下副食物之部)』に「ちさ」の名が見え、奈良県下で栽培され広く食べられていたことが分かる<ref name="kyoudosyokunokenkyuu">中澤辨治郎編 [{{NDLDC|1024508/10}} 『郷土食の研究(奈良県下副食物之部)』] 食糧報国聯盟本部、1942年2月25日。</ref>。
* [[大和国|大和]]では「[[ちしゃ]]と[[たけのこ]]はあいくち(相性がよい)」と言って、郷土料理に「ちしゃとたけのこのおあえ([[ごま]][[味噌]][[和え物|あえ]])」「ちしゃとたけのこの[[木の芽]][[和え物|あえ]]」をはじめ、「ちしゃのはりはり」「ちしゃ菜寿司」などがあり<ref>[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002214910-00 『聞き書奈良の食事』]日本の食生活全集29 農山漁村文化協会、1992年、84、103、117、275頁、ISBN 978-4540920035。</ref>、古くから親しまれてきた[[野菜]]である。
* ナント種苗の過去のカタログ『種の世界』には「白かきちしゃ」の記載が確認できる<ref>『種の世界』No.144秋蒔種子値段表、ナント種苗、1995年12月、17頁。</ref>。
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* 長さ15~20cmくらいのやや大振りな平莢で、ごつごつとした見かけであるが、筋がなく柔らかい。
* 現在のような若莢を食べる野菜用の品種は、[[幕末]]から[[明治]]に[[日本]]に導入されたものが元になっている<ref>野菜図鑑 [http://vegetable.alic.go.jp/panfu/ingen/ingen.htm 「さやいんげん」 2015年6月3日閲覧。]</ref><ref>野菜ナビ [http://www.yasainavi.com/zukan/sayaingen.htm 「さやいんげん」 2015年6月3日閲覧。]</ref>。
* 1940年頃に、[[奈良師範学校#奈良県女子師範学校|奈良県女子師範学校]](現[[奈良女子教育大学]])生徒の[[副食|副食物]]を調査した『郷土食の研究(奈良県下副食物之部)』に「ドイツ豆」の名が数多く見え、[[戦前]]から奈良県下で栽培され広く食べられていたことが分かる<ref name="kyoudosyokunokenkyuu" />。
* [[奈良県]]をはじめ[[関西]]では「インゲン豆」と言うと[[フジマメ]]を指す。そのため[[奈良県]]の農家では一般的に言う[[サヤインゲン]]を「インゲン豆」と総称せず、品種によって「ドイツ豆」「[https://shop.takii.co.jp/CGI/shop/search/detail.cgi?item_code=ASA151&prev=enable モロッコ豆]」「[[三度豆]](どじょうインゲン)」などと言い分けている。(ギャラリー写真参照) また[[明]]からの[[帰化]][[僧]][[隠元]]が持ち込んだのは、地元で「インゲン豆」と呼ぶ[[フジマメ]]であると考えられている{{Refnest|group="注釈"|ただし、1712年(正徳2年)に寺島良安により刊行された『[[和漢三才図会]]』「藊豆(いんげんまめ)」の項([[フジマメ]]を指す)には、「按ずるに藊豆([[フジマメ]])本朝古へ自り有りて而して甚だ用ゐず 承応中黄檗隠元禅師来朝以後處處に多く之を種す」([[フジマメ]]は我が国に古くからあるが、あまり栽培されていなかった。[[承応]]年間に[[黄檗山]]の[[隠元隆き|隠元禅師]]が来朝したころからあちこちで多く栽培されるようになった。《そのため、この豆は「インゲン豆」と呼ばれるようになった。》)とあり、インゲン豆と呼ばれる[[フジマメ]]は(言及されていない今の[[インゲン豆]]も)[[隠元隆き|隠元]]が我が国に伝えたのではないとしている<ref name="sansaizue104">寺島良安編纂[{{NDLDC|898183/19}} 『和漢三才図会』巻第104]、1712年(正徳2年)。</ref>。}}。
* NPO法人清澄の村の『大和伝統野菜物語』は、「どいつ豆」の名前の由来として「なぜこのような名が付いたのかは正確には不明ですが、『この美味しい豆をつくったのは、どいつ(どの人)』といったところから名づけられたとの一説もあります。」と紹介している<ref>NPO法人 清澄の村 [http://www.kiyosumi.jp/npo/dentoyasai-29.html 『大和伝統野菜物語』29「どいつ豆」] 2015年6月6日閲覧。</ref>。しかし、戦前から「'''ドイツ'''豆」と表記され<ref name="kyoudosyokunokenkyuu" />、語源が日本語の「どいつ」ではないと推測され、この説は単なる[[駄洒落]]を取り上げたものであると考えられる。
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* [[お盆]]の時期に出回る、[[サヤインゲン]]を細く扁平にしたような、50cm位の長さの[[ささげ]]の一種。一つの莢に豆が18粒入っているので「十八豆」と言われるようになった。「ささげ」「十八ささげ」「三尺ささげ」とも呼ばれる。
* 1823年(文政6年)に[[山辺郡]]乙木村(現[[天理市]]乙木町)の大百姓山本喜三郎が記した古文書『山本家百姓一切有近道』に「一八ささげ」の記述があり、この頃には[[奈良盆地]]で広く栽培され、生活に根付いていたことが分かる<ref>民俗資料解説図録『食をめぐる民俗 アイ(間)とトッキョリ(時折)』 [[奈良県立民俗博物館]]、2005年9月17日、3頁。</ref>。
* 1940年頃に、[[奈良師範学校#奈良県女子師範学校|奈良県女子師範学校]](現[[奈良女子教育大学]])生徒の[[副食|副食物]]を調査した『郷土食の研究(奈良県下副食物之部)』に「十八豆」の名が数多く見え、[[戦前]]には奈良県下で栽培され広く食べられていたことが分かる<ref name="kyoudosyokunokenkyuu" />。
* [[日本の郷土料理一覧#奈良県|奈良県の郷土料理]]「七色のお和え」にして食べられるほか、[[お盆]]の[[お供え]]として欠かせない物である。
* ナント種苗の過去のカタログ『種の世界』には「赤種三尺ささげ」「黒種三尺ささげ」の記載が確認できる<ref>『種の世界』No.148春蒔種子値段表、ナント種苗、1997年12月、31頁。</ref>。