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'''租庸調'''(そようちょう)は、日本、中国、朝鮮及び日本朝鮮の[[律令制]]下での[[租税]]制度である。
 
== 中国の租庸調 ==
中国の租庸調は、[[北周]](556年 - 581年)に始まり、[[唐]](618年 - 907年)で完成した。以下は、唐における租庸調である。
*租
:[[均田制]]に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務を負った。これが'''租'''である。租は穀物を納める税であったが、当時の唐の基盤となった華北の主食は[[アワ|粟(アワ)]]であり、租の本色(基本的な納税物)は粟とされていた<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P523</ref>。
*庸
:律令においては、本来は年間20日の労役の義務があり、それを「正役」と称した。正役を免れるために収める税が庸であったが、唐代中期以後は庸を納めることが一般化した(なお、雑徭2日分が正役1日分と換算されたため、雑徭を年間40日を行った者はその年の正役も庸も免除され、庸を正役20日分納めた者は雑徭も40日分免除された)。正役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めることとされていた。
*調
:調は、絹2丈と綿3両を収めることとされていた。
 
ただし、租庸調は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]統一以前の[[北朝 (中国)|北朝]]支配下の農民の実態に合わせた租税制度であったと見られ、[[隋]](581年 - 618年)になってから統治下に含まれるようになった旧[[南朝 (中国)|南朝]]支配地域でそのまま実施されたかについて疑問視する意見もある(南朝支配下の華南は[[イネ|稲]]を主食とし、農民の生産活動が華北とは大きく異なるため)<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P72-79・512-515</ref>。
 
[[均田制#均田制の崩壊|均田制が崩壊し]]、大土地所有の進行の一方で、本籍から離れ小作人となる農民が増えるようになると、制度の維持が難しくなり、[[地税]]・[[青苗税]]・[[戸税]]などの弥縫的な税を経て、[[建中]]元年([[780年]])、[[徳宗 (唐)|徳宗]]の宰相[[楊炎]]の建議により、実際の耕地に応じて徴収する[[両税制]]が施行されると、それが主たる歳入源となり、租庸調は形骸化した。
 
== 朝鮮の租庸調 ==
{{朝鮮の事物
|title=租庸調
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|hangeul=조용조
|hanja=租庸調
|hiragana=そようちょう
|katakana=チョヨンジョ
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[[朝鮮]]では、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]に[[中国]]から律令制度とともに租庸調の制度を輸入したとされている<ref name=y>[http://kr.dictionary.search.yahoo.com/search/dictionaryp?&p=%EC%A1%B0%EC%9A%A9%EC%A1%B0&subtype=enc&pk=18090700&field=id 租庸調]Yahoo!百科事典</ref>。その後の[[高麗]]と[[李氏朝鮮]]も、租庸調という伝統的な貢納形態に税制の根拠を置いた。名称と内容は時代とともに変わったが、租庸調の基本的な枠組は、20世紀初まで継続した<ref name=b>[http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=186173&v=42 租庸調]ブリタニア百科</ref>。
 
租は土地を対象にして賦課するもので、庸は民の労動力を直接使役することで、調は戸を対象に生産物を貢納させるものである<ref name=b/>。租は田租([[:ko:전조 (세금)|전조]])、税、租税、貢、田結税などと、庸は徭、役、徭役、賦、貢賦、布などと、調は貢納([[:ko:공납|공납]])、貢、貢賦などとも呼ばれた<ref name=y/>。
 
李氏朝鮮は、租庸調の制度を通じて、土地と民を支配し、生産物と労動力を徴収して体制を維持した<ref name=b/>。李氏朝鮮初期には、租は田畑が課税の対象なので賦課率が明らかだったが、庸と調は官吏たちの不正が伴って負担が重くなり、農民を苦しめた<ref name=y/>。李氏朝鮮中期以後には、[[大同法]]([[:ko:대동법|대동법]])により調の大部分も田畑を対象とし米で納めるようになった。庸は軍布([[:ko:군포 (세금)|군포]])という布で納めるようになり、また[[均役法]]([[:ko:균역법|균역법]])の制定後には、一部を田畑を対象とし米で納めるようになった。時代によってその負担の軽重が変わり、初期には庸と調の負担が租よりも重かったが、後期には租の負担が一番重くなった<ref name=y/>。
 
李氏朝鮮末期には[[三政の紊乱]]といわれる税制上の様々な不正や収奪が横行した。[[1907年]]~[[1914年]]になって、[[所得税]]、[[財産税]]、流通税、[[消費税]]などの近代的租税制度に変わった<ref name=b/>。
 
== 日本の租庸調 ==
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=== 運脚 ===
調・庸・調副物は京に納入された。納入する人夫を運脚といい、かかる負担は全て自弁であり大きな負担となった。
 
 
== 中国の租庸調 ==
中国の租庸調は、[[北周]](556年 - 581年)に始まり、[[唐]](618年 - 907年)で完成した。以下は、唐における租庸調である。
*租
:[[均田制]]に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務を負った。これが'''租'''である。租は穀物を納める税であったが、当時の唐の基盤となった華北の主食は[[アワ|粟(アワ)]]であり、租の本色(基本的な納税物)は粟とされていた<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P523</ref>。
*庸
:律令においては、本来は年間20日の労役の義務があり、それを「正役」と称した。正役を免れるために収める税が庸であったが、唐代中期以後は庸を納めることが一般化した(なお、雑徭2日分が正役1日分と換算されたため、雑徭を年間40日を行った者はその年の正役も庸も免除され、庸を正役20日分納めた者は雑徭も40日分免除された)。正役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めることとされていた。
*調
:調は、絹2丈と綿3両を収めることとされていた。
 
ただし、租庸調は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]統一以前の[[北朝 (中国)|北朝]]支配下の農民の実態に合わせた租税制度であったと見られ、[[隋]](581年 - 618年)になってから統治下に含まれるようになった旧[[南朝 (中国)|南朝]]支配地域でそのまま実施されたかについて疑問視する意見もある(南朝支配下の華南は[[イネ|稲]]を主食とし、農民の生産活動が華北とは大きく異なるため)<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P72-79・512-515</ref>。
 
[[均田制#均田制の崩壊|均田制が崩壊し]]、大土地所有の進行の一方で、本籍から離れ小作人となる農民が増えるようになると、制度の維持が難しくなり、[[地税]]・[[青苗税]]・[[戸税]]などの弥縫的な税を経て、[[建中]]元年([[780年]])、[[徳宗 (唐)|徳宗]]の宰相[[楊炎]]の建議により、実際の耕地に応じて徴収する[[両税制]]が施行されると、それが主たる歳入源となり、租庸調は形骸化した。
 
== 朝鮮の租庸調 ==
{{朝鮮の事物
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[[朝鮮]]では、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]に[[中国]]から律令制度とともに租庸調の制度を輸入したとされている<ref name=y>[http://kr.dictionary.search.yahoo.com/search/dictionaryp?&p=%EC%A1%B0%EC%9A%A9%EC%A1%B0&subtype=enc&pk=18090700&field=id 租庸調]Yahoo!百科事典</ref>。その後の[[高麗]]と[[李氏朝鮮]]も、租庸調という伝統的な貢納形態に税制の根拠を置いた。名称と内容は時代とともに変わったが、租庸調の基本的な枠組は、20世紀初まで継続した<ref name=b>[http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=186173&v=42 租庸調]ブリタニア百科</ref>。
 
租は土地を対象にして賦課するもので、庸は民の労動力を直接使役することで、調は戸を対象に生産物を貢納させるものである<ref name=b/>。租は田租([[:ko:전조 (세금)|전조]])、税、租税、貢、田結税などと、庸は徭、役、徭役、賦、貢賦、布などと、調は貢納([[:ko:공납|공납]])、貢、貢賦などとも呼ばれた<ref name=y/>。
 
李氏朝鮮は、租庸調の制度を通じて、土地と民を支配し、生産物と労動力を徴収して体制を維持した<ref name=b/>。李氏朝鮮初期には、租は田畑が課税の対象なので賦課率が明らかだったが、庸と調は官吏たちの不正が伴って負担が重くなり、農民を苦しめた<ref name=y/>。李氏朝鮮中期以後には、[[大同法]]([[:ko:대동법|대동법]])により調の大部分も田畑を対象とし米で納めるようになった。庸は軍布([[:ko:군포 (세금)|군포]])という布で納めるようになり、また[[均役法]]([[:ko:균역법|균역법]])の制定後には、一部を田畑を対象とし米で納めるようになった。時代によってその負担の軽重が変わり、初期には庸と調の負担が租よりも重かったが、後期には租の負担が一番重くなった<ref name=y/>。
 
李氏朝鮮末期には[[三政の紊乱]]といわれる税制上の様々な不正や収奪が横行した。[[1907年]]~[[1914年]]になって、[[所得税]]、[[財産税]]、流通税、[[消費税]]などの近代的租税制度に変わった<ref name=b/>。
 
 
 
== 脚注 ==