「ハリー・サルツマン」の版間の差分

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[[カナダ]]・[[ニューブランズウィック州]]に生まれる<ref name="NYTimes"/>。
 
[[アルバート・R・ブロッコリ]]と共同で[[イーオン・プロダクションズ]]を設立し、[[イアン・フレミング]]のスパイ小説、[[007シリーズ]]を映画化。同シリーズは現在では当たり前のように製作されているスパイ映画の草分け的な存在になった。ブロッコリ、[[テレンス・ヤング]]、[[ショーン・コネリー]]、[[ケン・アダム]]、[[モーリス・ビンダー]]らと共に007シリーズの黎明期における大功労者として名を残す。サルツマンは数々の名案を生み出し、周囲から「ショーマン(SHOWMAN)」と呼ばれた。

007シリーズに関てサルツマンは原作を高く評価ており映画シリーズ第6作『[[女王陛下の007]]』は比較的原作に忠実な映画化を目指した彼の意向反映された作品となった。しかし『女王陛下の007』はそれまでの諸作より低調な興行収入に終わってしまい娯楽路線を志向していたブロッコリといつしか亀裂が生じてしまう。そしてサイドビジネスの不調から1975年、『[[007 黄金銃を持つ男]]』を最後に007シリーズの映画化権の持分を、[[ユナイテッド・アーティスツ]]に売却し、シリーズの製作から身を引き、ファンに衝撃を与えた。その後も007シリーズの出演者とは交流があった。その後は以前ほど目立った活動が出来ず、事業が失敗して多額の借金を背負うことになってしまう。製作を降りた『[[007 私を愛したスパイ]]』の撮影期間中の失意の時に、妻・ジャッキーが癌で亡くなり、以後は遺族によると意気消沈して抜け殻のようになってしまい、自身も体調を崩してしまったという。1981年、ハイアム・トポルの提案によりブロッコリは『[[007 ユア・アイズ・オンリー]]』のプレミア試写会にサルツマンは家族と招待された。そこでブロッコリとサルツマンは抱擁を交わし、一同からは拍手が起きた。2人が対立したのは仕事面であり、互いに悪感情はなかった。カビーはボンド映画で素晴らしい仕事をしているとサルツマンは述べている。シリーズの製作復帰も打診されたがサルツマンが断っている。その後は意欲を取り戻し、『ニジンスキー』製作後、映画劇場運営会社を立ち上げ、世界各国の映画に出資し、映画界に貢献した。[[カンヌ映画祭]]グランプリ候補となった『ジプシーのとき』もその一つ。大好きだったという演劇にも関わった。
 
晩年は[[フランス]]の[[ヴェルサイユ]]近郊に住んでいたが、1994年、[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]のアメリカン・ホスピタルで心臓発作のため死去した<ref name="NYTimes"/>。78歳没。