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猪木は、当時ライバルであった馬場の遠征時の日本プロレスの扱いと比べ、遠征中に日プロからは何も連絡がなく、日本では常に猪木の先を走っていた馬場の人気が沸騰していたこともあって、「俺は本当に日プロから大事にされているのか、馬場さんとの差がどんどん開いていく気がする」と日本プロレスの自分への待遇に疑問を抱くようになっていた。猪木のハワイ到着時のマスコミの取材も少なく、しかも到着日に宿泊するホテルが予約されていなかったこと<ref>『プロレス醜聞100連発』54Pより。すでに猪木引き抜きの情報が日本プロレスにも察知されており、猪木に対して疑心暗鬼になっていたこともあって、冷遇したと言われる。</ref>もあって、日本プロレスの対応にますます不安感を持った猪木を、豊登がハワイ入りして口説く形となったのである。
 
日本プロレス側は1966年[[3月13日]]に、同年3月9日にハワイ入りしていた馬場に加えて役員の吉村を派遣して、猪木の豊登新団体への参加を阻止せんとした。猪木は同年3月19日夕方の[[ホノルル国際空港]]発の航空機で馬場と吉村、[[識名]]と一緒に帰国する事を一度は承諾した。結局、猪木は馬場、吉村、沖の帰国当日にハワイへ到着した豊登の説得を受け、豊登新団体への参加を決意することとなり、猪木は同年3月21日に日本プロレスに[[国際電話]]を入れて日本プロレスを退団する事を表明し、同年4月23日に豊登と共に帰国した<ref name="jiken8" />。この一件は俗に「太平洋上の略奪」と呼ばれる。
 
猪木を豊登に奪われる形となった日本プロレスは、これまで表沙汰としなかった一連の豊登の行動を批判する形で除名処分とすることを決定。また、豊登に対しての告訴も検討されたが、もう一人の当事者であった猪木に対しては「若い猪木は豊登に騙されている」として処分が下ることはなかった<ref name="jiken8" />。