「粛宗 (朝鮮王)」の版間の差分

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粛宗はまず、[[光海君]]以後実施して来た[[大同法]]を[[慶尚道]]と[[黄海道]]まで拡大させ、初めて全国的に実施するようになった。そしてこの時から活発になり始めた商業活動を支援するために[[常平通宝]]を作り、広く使用するように奨励した。そして[[文禄・慶長の役]]と[[丙子の役]]以後、混乱から脱け出すことができなかった社会を全般的に収め、整備して安定期を謳歌する政治功績を残した。
 
また[[清]]と国境紛争が起きると、交渉して[[1712年]][[咸鏡道]][[観察使]]李善溥に[[白頭山]]山頂に定界碑を立てさせ、国境を定めたりした。そして日本に派遣した[[朝鮮通信使|通信使]](朝鮮通信使)に幕府と交渉させ、日本人の竹島(現在の鬱陵島)への立ち入り禁止を保証させた([[竹島一件]])。また通信使を3度派遣(1682年、1711年、1719年)し、倭銀使用条例を定めることで[[倭館]]貿易を整備させた。その他にも王位を奪われて亡くなった魯山君を復位させて[[端宗 (朝鮮王)|端宗]]という諡号を贈ると同時に[[死六臣]]の名誉も回復させ、廃庶人となった[[昭顕世子嬪姜氏]](粛宗の祖父[[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]の兄・[[昭顕世子]]の妃)を[[愍懐嬪]]に復位させた(いずれも[[1691年]])
 
しかし粛宗の王権強化政策は、政治勢力を徹底的に利用しなければならない側面があるため、絶対的王権は粛宗の治世で終わりとなり、粛宗のように力強い王権を持った王は二度と出なくなった。