「長州征討」の版間の差分

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大政委任を確認した元治国是は長州処分を幕府の専権事項に含んだが、朝廷も国事に関して幕府諸藩へ命令を出すことができるとした。朝廷、幕府、諸藩のパワーバランスの上に成り立つ体制下では大政委任が空文化する恐れもあった。[[徳川慶喜|一橋慶喜]]、[[会津藩]]主兼[[京都守護職]][[松平容保]]は[[大奥]]や保守派大名の影響力が大きい[[江戸城]]から将軍徳川家茂を引き離し、畿内長期滞在態勢で公武一和を推進しようとした。しかし幕閣は第一次長州征伐の後[[フランス第二帝政|フランス]]の後押しもあり強硬な姿勢をとり、朝廷からの再三の上洛要請も遷延策で無視をした。長州処分も諸藩を動員し長門周防を取り囲めば藩主父子は自ら出頭してくるとの見込みであり、最終処分案は慶応2年(1866年)1月21日まで決まらないまま事態は推移した。
 
復古派の幕閣に対して勤皇諸藩は朝廷を以て幕府を制し挙国一致の体制を志向した。憂慮した松平容保は自ら江戸に出て将軍上洛運動を起こそうとしたが[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]に[[阿部正外]]、[[2月7日 (旧暦)|7日]]に[[松平宗秀|本荘宗秀]]の両[[老中]]が幕府歩兵を率いて上洛したことで容保の東下は中止となった。[[松前崇広]]よりの内報では、阿部と本荘の目的は将軍上洛の中止と一橋慶喜と容保および弟の[[桑名藩]]主兼[[京都所司代]][[松平定敬]]を京都より追い出すことにあると知らされた。[[2月22日 (旧暦)|22日]]に参内した両老中は目的を達せずに[[関白]][[二条斉敬]]の叱責をうけた。[[2月23日 (旧暦)|23日]]、阿部は将軍上洛のために江戸へ帰らされ、本荘は摂海警備のために大坂表へ向かわされた。
 
一方で7日に上京した薩摩藩士[[大久保利通]](一蔵)は[[小松清廉]](帯刀)と共に[[2月9日 (旧暦)|9日]]に[[久邇宮朝彦親王|中川宮朝彦親王]]に、[[2月11日 (旧暦)|11日]]には[[近衛忠房]]に謁見した。[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]、京都所司代への御沙汰書が降下された。内容は藩主父子及び五卿の江戸拘引を猶予すること、[[参勤交代]]の制度は[[文久の幕政改革]]の内容に戻すこと、将軍は上洛した上で国是を評議することであった。慶喜・容保は所司代に御沙汰書を留置させ、御沙汰書は一旦撤回され、[[3月14日 (旧暦)|14日]]に本荘宗秀が参内して受け取り[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]、江戸城に登城して幕府に提出した。