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[[244年]]、魏の大将軍の[[曹爽]]が歩兵・騎兵あわせて10万余りを率いて漢川に向かい、先鋒は早くも駱谷に侵攻してきた。そのとき、漢中の守備兵は三万に満たなかったため、諸将は恐れ慄いた。ある者が、漢中を捨てて後退し、漢城・楽城を固守して本隊の援助を待つべきだと主張した。王平は、漢中を取られることのことの危険性を考慮してこの意見を退け、前進して隘路で足止めを行い、救援を待つことにした。王平は、劉敏と杜祺を派遣して興勢山にたてこもらせ、王平みずからは黄金谷より敵が兵を進めて来たときのために、後方で備えにあたった。王平は、[[費イ|費禕]]の援軍が到着するまで抵抗を続け、撃退することに成功した([[興勢の役]])。
248年に病死し、嫡子が後を継いだ。
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