「野見宿禰」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
2行目:
[[Image:野見宿禰.jpg|thumb|300px|『前賢故実』による野見宿禰]][[画像:Nomisukune14.JPG|right|110px|thumb|野見宿禰<br>([[荒川亀斎]]作)]]
 
'''野見宿禰'''(のみのすくね)は、[[土師氏]]の祖として『[[日本書紀]]』などに登場する人物である。[[阿陀勝]]の父
 
== 人物 ==
[[アメノホヒ|天穂日命]]の14世の子孫であると伝えられる[[出雲国]]の勇士で、第12代の[[出雲国造]]である[[氏祖命|鵜濡渟]](宇迦都久怒)の子。またの名を襲髄命という<ref>『出雲国造伝統略』</ref>。[[垂仁天皇]]の命により[[当麻蹴速]]と[[相撲|角力(相撲)]](『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた[[大和国]]当麻の地(現[[奈良県]][[葛城市]]當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた<ref>『日本紀』垂仁天皇7年条</ref>。また、垂仁天皇の[[皇后]]、[[日葉酢媛命]]の葬儀の時、それまで行われていた[[殉死]]の風習に代わる[[埴輪]]の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の[[カバネ|姓]]を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々[[天皇]]の葬儀を司ることとなった<ref>『日本紀』垂仁天皇32年条。なお、垂仁天皇の[[漢風諡号]]である「垂仁([[仁]]を垂れる)」は、この殉死を廃止したとの説話に因むものである。</ref>。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことである<ref>『出雲国造伝統略』。この説によれば、土師氏のみならず出雲氏(出雲国造)の祖先でもあることになる。</ref>。[[播磨国]]の立野(たつの・現在の[[兵庫県]][[たつの市]])で病により死亡し、その地で埋葬された<ref>『[[播磨風土記]]』[[揖保郡]]立野条。</ref>。
 
ところで、埴輪創出についての[[考古学]]的な知見からは、記紀が語る上述のような伝説は史実ではないとされているが<ref>詳しくは[[埴輪]]の項目を参照。</ref>、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説がある<ref>西郷「ノミノスクネ考」。</ref>。それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての[[古墳]]の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に[[火葬]]の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る[[神話]]として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである。