「ペドロ・ゲレーロ」の版間の差分

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守備位置は、当初は[[右翼手|ライト]]が多く、時折内野([[三塁手|サード]]、[[一塁手|ファースト]]が主だが時に[[二塁手|セカンド]])での起用。ただし、{{by|1983年}}はほぼサードでの起用。{{by|1984年}} - 1985年はレフトを中心に時折サード・ファーストで出場。{{by|1988年}}前半はサードを主に時折ファーストでの起用であった。当時、ドジャースは[[スティーブ・ガービー]]ら「不動の内野陣」が順に移籍したりと、チーム編成の過渡期にあったため、ポジションを度々変えることとなった。
 
しかし1988年にはシーズン序盤に再び故障し約2か月欠場。ただしこの間もチームは勝ち続け、成績の割に有効打が少ないとみなされ、[[フェルナンド・バレンズエラ]]の故障で先発左腕投手の補強を急務とするチーム事情もあってシーズン中[[8月16日]]に[[ジョン・テューダー]]との[[トレード]]<ref>すでにトレード期間([[7月31日]]まで)は終了しており、[[ウェーバー公示|ウェーバー]]によるトレードであった。</ref>で[[セントルイス・カージナルス]]に移籍。この移籍に関しては、カージナルスが「四番・ファースト」を期待して前年オフに獲得した[[ボブ・ホーナー]]の不振及び故障が原因にある。このトレードはドジャースにとっては成功し、この年ワールド・チャンピオンとなった。移籍したゲレーロはすぐに四番に座り、ほぼファーストに固定された。翌{{by|1989年}}には全162試合に出場して打率.311。当時本拠地[[ブッシュ・スタジアム]]が広かったこともあって17本塁打に終わったが、117打点を記録。二塁打42はリーグ1位であった。この年、自身5度目のオールスターにも出場した。{{by|1990年}}以後は欠場がちとなり、肩の故障で43試合の出場に終わった{{by|1992年}}を最後に現役を引退。
 
[[1980年代]]にメジャーリーグ各チームはラテン系、特にドミニカに人材を求めてスカウト網を巡らせることとなったが、その先駆けともいえる選手がゲレーロであった。