「山梨県立美術館」の版間の差分
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== 概要 ==
公共文化施設の未整備から「文化不毛の地」と評されていた山梨県において、戦後には[[博物館]]建設構想など文化事業振興の気運が存在し、[[1975年]](昭和50年)に3期目の当選を果たした[[田邊圀男]]知事は、[[山梨県立県民文化ホール]]とともにかねてより懸案であった同美術館の設置事業に着手する。翌[[1976年]](昭和51年)には美術資料取得基金を設立し、山梨県農事試験場跡地に美術館の建設
田辺国男の回想録『ミレーと私』によれば、田辺 [[1978年]](昭和53年)[[11月3日]]に開館した。開館後も[[1995年]]から[[1998年]]にかけて、飯田画廊からミレーの『グレヴィルの断崖』『落穂拾い、夏』(山梨県企業局の備品として購入)を入手した<ref>島田(2002)、p.9</ref>。飯田画廊からはミレーの版画の寄贈も受けている。2000年には相川プレス工業から寄託されていたミレーの『無原罪の聖母』が寄贈される<ref>島田(2002)、p.9</ref>。
[[Image:Jean-François Millet (II) 013.jpg|thumb|left|200px|[[ボストン美術館]]にあるもう一枚の「種まく人」]]
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