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明治2年([[1869年]])3月、明治天皇の[[東京]][[行幸]]中の大宮御所御用掛、同年7月に[[麝香間祗候]]を命ぜられる。明治11年([[1878年]])12月に薨去。[[享年]]63。[[嵯峨野]]の[[二尊院]]に葬られた。養子の[[二条基弘|基弘]]([[九条尚忠]]の八男)が二条家を継いだ。実子としては、側室との間に[[二条正麿|正麿]](分家して[[男爵]])、[[宮橋利敬|利敬]](宮橋家へ養子。後に慶光院と改姓)、[[四条隆英|隆英]]([[四条家]]へ養子)などがいる。またその他、[[二条寛斎|寛斎]]という[[隠し子|密子]]がいたとも言われる<ref>『[[中山忠能]]日記』[[文久]]三年七月二十七日条、[[渋沢栄一]]『徳川慶喜公伝』第二巻などに掲載されている。長州藩士[[宍戸元礼]]の正室となり[[宍戸親基]]を生んだ娘がいるとされる。佐幕派の公家である[[徳大寺家]]に家臣として仕え、文久3年(1863年)に、襲撃してきた熊本藩士の[[上松友胤]]という者と互いに刺し違える形で死亡したという([http://www21.atpages.jp/siseki/kyouto_iwakura_hoka.html こちら]より)。</ref>。
 
== 官職および位階等の履歴 ==
: ※日付=旧暦(明治4年以前)
* [[文政]]7年([[1824年]]) [[従五位|従五位下]]、[[従四位|従四位下]]・[[近衛府|左近衛権少将]]、[[正四位|正四位下]]・右近衛権中将
* [[文政8]]7年([[18251824年]]) [[従三位]]
: 5月25日、元服し、従五位上に叙せられ、昇殿・禁色を許される。  5月28日、左近衛権少将に任官。
* 文政10年([[1827年]]) [[正三位]]
: 6月4日、従四位下に昇叙。左近衛権少将如元。
* 文政11年([[1828年]]) [[中納言|権中納言]]
:8月10日、右近衛権中将に転任。
* [[天保]]2年([[1831年]]) [[大納言|権大納言]]
:10月19日、正四位下に昇叙。右近衛権中将如元。
* 天保3年([[1832年]]) [[従二位]]
* 天保9文政8年([[18381825年]]) [[正二位]]
: 8月1日、従三位に昇叙し、右近衛中将如元。
* [[安政]]6年([[1859年]]) [[内大臣]]
* [[久]]2政10年([[18621827年]]) [[従一位]]・[[右大臣]]
:12月19日、正三位に昇叙。右近衛権中将如元。
* 文久3年([[1863年]]) [[左大臣]]
* 文久4政11年([[18641828年]]) [[関白]]、[[藤氏長者]]
: 2月4日、権中納言に転任。右近衛権中将如元。
* [[慶応]]3年([[1867年]]) 左大臣を辞す、[[摂政]]
* [[天保]]2年([[1831年]]) [[大納言|権大納言]]
: 6月23日、権大納言に転任。帯剣を許される。
* 天保3年([[1832年]]) [[従二位]]
: 1月27日、従二位に昇叙。権大納言如元。
* 天保9年([[1838年]])
: 10月28日、正二位に昇叙。権大納言如元。
* [[安政]]6年([[1859年]]) [[内大臣]]
:3月27日、左近衛大将・左馬寮御監兼帯。3月28日、内大臣に転任。左近衛大将・左馬寮御監如元。
* [[文久3]]2年([[18631862年]]) [[左大臣]]
: 1月4日、右大臣に転任。右大臣に転任。左近衛大将・左馬寮御監如元。
:5月11日、左近衛大将・左馬寮御監を辞任。随身兵杖を許される。
:9月28日、従一位に昇叙。右大臣如元。
:12月9日、国事御用掛を兼務。
* 文政10久3年([[18271863年]]) [[正三位]]
: 9月19日、内覧宣下。
:12月23日、関白宣下。左大臣に転任。藤原氏長者宣下。随身兵杖・牛車を許される。内覧如元。
* [[慶応]]3年([[18671866年]]) 左大臣を辞す、[[摂政]]
: 1月9日、摂政宣下。
: 9月27日、左大臣を辞任。
: 12月9日、摂政、内覧、随身兵身、国事御用掛を辞退。
* 慶応4年([[1867年]])
:2月2日、藤原氏長者を辞退。
* [[明治]]2年([[1869年]])
: 3月、大宮御所御用掛。
: 7月27日、麝香間祗候に列す。
* 明治3年([[1870年]])
: 5月24日、正二位に降位。
* 明治11年([[1878年]])
: 12月10日、従一位に復位。<br />
※参考文献:公卿補任、太政官日誌、幕末明治重職補任(東京大学出版会)1980年発行、
 
==参考文献==