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{{Otheruses}}
'''科学'''(かがく、英: ''science'' )という語は文脈に応じて多様な意味をもつが、おおむね以下のような意味で用いられている。
{{科学}}
*(広義)体系化された[[知識]]や[[経験]]の総称であり、[[自然科学]]、[[人文科学]]、[[社会科学]]の総称。
'''科学'''(かがく)という語は文脈に応じて多様な意味をもつが、おおむね以下のような意味で用いられている。
*(広義)体系化された[[知識]]や[[経験]]の総称。
*(広義)[[自然科学]]、[[人文科学]]、[[社会科学]]の総称。
* 自然についての体系的知識{{Sfn|佐々木力|1996|p=23}}。
* [[自然科学]]。
*(狭義)[[科学的方法]]に基づく学術的な[[知識]]、[[学問]]。
*(最狭義)[[自然科学]]。
 
他にも以下の意味で用いられることも多々ある。
* 近代精密科学
* ドイツ語のWissenschaftの訳語(英語圏のscienceとも異なる用法)
* 英語圏のscienceの訳語(英語圏の意味であることを暗示するために「サイエンス」と表記することもある)
* 英語の語源はラテン語のscientiaでその意味は知識knowledgeである<ref>http://www.etymonline.com/index.php?term=science&allowed_in_frame=0</ref>
 
== 知識や経験の総称としての科学 ==
== 緒論 ==
「科学」という語は[[ラテン語]]の ''scientia'' (知識)に由来する。''science'' という語は、17世紀の[[科学革命]]のころまでは、体系化された[[知識]]や[[経験]]の総称という意味で用いられてきた。なかでも、観察や[[実験]]に基づく体系的な[[学問]]という意味では、''natural philosophy'' ([[自然哲学]])や''experimental philosophy'' (実験哲学)の語が用いられていた。<!--体系的でない「知」をscientiaと呼び、体系的な「知」を''natural philosophy'' や''experimental philosophy''と呼んでいたわけではない。そもそも「知」は本来的に体系的である。たとえば[[神秘主義]]は体系を持つ。-->今日でも「科学」の語は、[[自然科学]]、[[人文科学]]、[[社会科学]]の総称としてしばしば用いられる。
=== 科学の範囲の変化、科学を語ることの困難 ===
「科学」なるものが何であるかについて論ずるのは、歴史的なコンテクストに依存していて、容易なことではない{{Sfn|佐々木力|1996|p=8}}。一言で言えば、[[歴史]]とともに「科学」の意味は変遷してきている{{Sfn|佐々木力|1996|p=8}}。
また、どのような知識内容が「科学的」であるか(あったか)を定めるそれなりの基準を設定しようと努力することはそれなり意味はあるが、厳密な境界設定は実際上はほとんど不可能である{{Sfn|佐々木力|1996|p=8}}、ともされる。
ただし、だからといって「科学」とは何であるか議論したり追究することが無意味というわけではない{{Sfn|佐々木力|1996|p=8}}。人々が、ある種の[[知識]]を「scientia」「science」あるいは「科学」と呼び、それに一定の権威を認めて、その知識の拡大と深化に努力してきた事実は残っている{{Sfn|佐々木力|1996|p=8}}。
 
人類は太古の昔から、自分たちをとりまく自然界の現象や自身の人体の構造について関心を抱き続けてきた。歴史上、[[古代オリエント]]、古代インド、古代中国をはじめとするさまざまな[[文明]]圏において、これらの関心対象を説明するための知識や経験が蓄積され、学問として体系化されていった<ref>アンドレ・ピショ『科学の誕生〈上〉古代オリエント 』、せりか書房、1995年、ISBN 4796701923 </ref><ref>アンドレ・ピショ『科学の誕生〈下〉ソクラテス以前のギリシア 』、せりか書房、1995年、ISBN 479670194X </ref><ref>平田寛『図説 科学・技術の歴史―ピラミッドから進化論まで 前約3400年‐1900年頃』、朝倉書店、ISBN 4254102038</ref>。[[古代]]に形成された学問の諸体系のなかでも後世に大きな影響力を残したのが[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の自然哲学である。[[中世]]においては[[イスラム科学]]が最も先進的な地位を占めていた。後進ぎみだったヨーロッパは、イスラム諸国から科学や技術を輸入し、長い年月をかけて追いついた歴史がある<ref>都築洋次郎『世界科学・技術史年表』、原書房、ISBN 4562021918</ref>。
=== 世界の科学の俯瞰(西洋科学と非西洋科学)===
「科学」という語の意味は多様であるが、たとえばそれを「自然についての体系的知識」と限定的に解釈する場合でも、それを俯瞰的にみると、世界の各地域にそれはあったのであり、それをたとえば西洋科学と非西洋科学とに分かれていると見なすことも可能である。そして西洋科学は時代ごとに古典科学、近代科学に分かれていると見なすことも可能である{{Sfn|佐々木力|1996|p=23}}。
 
しかしこれら古代から中世にかけての諸学問は、[[客観]]性や論理的な[[推論]]の過程を重視する学問的態度を伴ったものではなかった。すなわち、今日の[[自然科学]]が不可欠の要件としている態度である[[論理実証主義]]を欠いていたのである。例えば中世の大学での講義では、現実の観察結果が古典に書かれた内容と異なるものであれば、古典の[[テクスト]]が正しいとされていた。
西洋科学と非西洋科学の関係を俯瞰し、あえて図に現すとしても、それは優劣が比較できるような直線的な図であらわされるようなものではなく、網状の複雑な地形図になるであろう{{Sfn|佐々木力|1996|p=23}}。また、そもそもそれらを共通の尺度で測るということ自体が無理なのである。そのようなことを、科学史家の[[トーマス・クーン]]は「incommensurable通約不可能」とか「[[通約不可能性]]」と呼んだ。西洋の科学と非西洋の科学では、それぞれ異なった[[言語ゲーム]]を行っており、相互に通約することは不可能なのである{{Sfn|佐々木力|1996|p=23}}。
 
20世紀の[[歴史学者]][[ハーバート・バターフィールド]]は、[[17世紀]]の[[ヨーロッパ]]において、自然現象を単に眺めて考察するという状態から一歩進んで、自然法則が作用する環境をさまざまな撹乱要因を取り除いて人為的に作り出す試み、すなわち[[実験]]([[冒険]])という手法を採用して、実証的に知識体系を進歩させていくという知的営為が形成されたとする。バターフィールドはこれを「[[科学革命]]」と名付け、人類史上における一大画期であるとして高い評価を与えた<ref>[[ハーバート・バターフィールド]]著、渡辺正雄訳 『近代科学の誕生』、講談社学術文庫、1978年</ref>。
本記事では、まず西洋の科学を時代順に古典科学、近代科学の順で解説し、つづいて非西洋科学について解説し、そして日本の科学事情や現代科学について解説する。
 
== 科学的方法に基づく学問としての科学 ==
ただし、科学について解説するとは言っても18世紀ないし19世紀ごろになるまでは現代の意味での「科学」という言葉があったわけではなく(後述)、厳密に言えば当時の人々は学問をもっぱらphilosophia[[哲学|フィロソフィア]]という言葉で把握し実践していたので、結局、その広範囲で様々な性質を備えた知的営みの中から、現代の科学史家らが「科学」に分類されると判断し、部分的に、そして恣意的に抽出したことを解説することになる。(よって、そのもともとの位置づけや性質を正確に理解するには、philosophia([[哲学]])やphilosophia physica([[自然哲学]])の記事も併せて読むことが望ましい)
{{see also|科学的方法}}
よく、「科学は物事の起こる理由を説明するもの」と説明されるが、これは間違いではないものの、科学の実態を正確に説明しているとは言い難い。世の中に見られる現象は、一見不思議なことは数多い。これがなぜかを知りたくなるのであるが、直接にそれを誰かに尋ねることで答えを得るのは難しい。聞かれた方がわからないから、適当に答えたのが[[神話]]の発祥かもしれない。
 
それに対して、こうすればこうなる、といった事象を集めることから、原因と結果を探してゆくのが科学的方法である。言いかえれば、究極的な目的である'''なぜ (Why) '''を一端棚上げにして、まずいかなる状態で、'''どのような (How) '''現象が起きているのかを記述するとこと、どのような条件下で何が起きるかを記録し、それに基づいて因果関係を分析しようとするのが科学である。そのような[[情報]]をかき集めて、一定な条件を集めれば特定の結果が得られることを示せるならば、重要な結果を得たと言えようし、その間の[[科学的説明]]ができるならば、科学の発展にそれなりの貢献ができたと言えよう。
== 古代-中世の科学(古典科学) ==
;古代から中世にかけての知的探求は基本的にはフィロソフィアと呼ばれていた。
古代ギリシャ以降、近代ヨーロッパまで、知の探求全般は、{{Lang-grc|φιλοσοφια}}('''[[哲学|フィロソフィア]]''')と呼ばれていた(直訳すれば「愛知」。知を愛すること。<ref><!--時代が異なり、フィロソフィアなる語が指示していた内容も大きく異なるのだから、ただ「哲学」へのリンクを記載するだけでは誤解を生む。-->古代ギリシャ当時の「フィロソフィア」は、今日の日本人が「[[哲学]]」という語を聞いた時に専ら連想するものとはいささか異なっていたのである。<br/>
尚、知的な探求や学術的な探求に「フィロソフィア」の語を用いる伝統は現在に至るまで続いている。現在でも通常、欧州や米国で[[博士号]]を取得した時に得られるタイトルは、物理学の博士号を取得した時も含めて{{Lang-en-short|Doctor of Philosophy}}(=「[[Ph.D.]] 」(英語圏の例)あるいは「D.Phil.」)であり、「フィロソフィア」が各国語に翻訳された語が入ることが一般的である。
</ref>)
 
その意味で、[[帰納法]]こそが科学の原点である。
古代から中世にかけての知識のうち、科学史家などによって科学に分類されるものは、現在では「古典科学」と呼ばれることがある{{Sfn|佐々木力|1996|p=28}}。
科学革命の時代以降、[[科学的方法]]が次第に形成され、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについて、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを地道に発達させてきた。ただしどのような方法なら科学的と見なせるのかという境界線は必ずしも明らかなわけではなく、科学者らは議論を重ねてきた歴史があり、現在でも議論は続けられている。現代における一つの指針としては、[[全米科学振興協会]]による[[すべてのアメリカ人の科学]](詳細は[[科学的方法]]を参照)がある。
 
数世紀におよぶ議論は混沌としていたが、[[20世紀]]前半の[[科学哲学]]者[[カール・ポパー]]が[[反証可能性]]の概念を提示し、それを条件とすることで[[理論]]が科学(彼が考える狭義の科学)に属するかそうでないかを線引きできることを示してみせた。混沌とした議論に悩まされ続けていた科学者らの中には[[反証可能性]]の概念や[[反証主義]]をひとつの解決策として歓迎する人が多かった。現在でも、これを科学と[[擬似科学]]とを区分する基準として採用する人は多い<ref>[[伊勢田哲治]]『疑似科学と科学の哲学』、名古屋大学出版会、ISBN 4815804532 など</ref><ref>ポパー流の視点に基づけば、「光の速度は不変である」という仮説をおくことは、観察によって反証することが可能なので、科学たりうる。一方、[[ジークムント・フロイト]]の[[精神分析学]]や[[カール・マルクス]]の[[マルクス経済学]]は、観察によって反証するすべを持たないので、科学とは呼べないことになる。</ref>。
現在の英語やフランス語等のscienceという語は、{{Lang-la|scientia}} に由来したもので、'''scientiaスキエンティアは単に「[[知識]]」という意味でしかなかった''' {{Sfn|佐々木力|1996|p=4}}。このようなscientiaの用法は、18世紀まではごく普通に流通し、さらに19世紀のある時期までも存続しつづけていたようだ{{Sfn|佐々木力|1996|p=4}}という。<ref>中世ヨーロッパではscientia naturalis(スキエンティア・ナトゥーラーリス)という表現は一応存在し、「自然に関する知識」のことで「[[自然哲学]]」とほぼ同じ意味で用いられていたとはいう。({{Harvnb|佐々木力|1996|p=4}})</ref>
 
ただしこうしたポパーの科学観に対しては1960年代から批判が加えられるようになった。その代表は科学史家[[トーマス・クーン]]の[[パラダイム]]論である。パラダイム論によれば、観察は、データを受動的に知覚するだけの行為ではなく、パラダイムすなわち特定の見方・考え方に基づいて事象を能動的に意味付ける行為である。従って、パラダイムそのものは個別の観察によって反証されるのではなく、別のパラダイムの登場によって「[[パラダイムシフト]]」の形で覆される。
「論証的学問」や「厳密な証明を伴った学問の性質をそなえた」という意味での表現ならば、古代や中世からすでに存在し、ギリシャ語では「エピステーモニコス」という語が用いられていた{{Sfn|佐々木力|1996|p=5}}<ref>「エピステーモニコス」は「[[エピステーメー]]」と同系統の語である。</ref>。
 
また、科学に属する諸学問は科学であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。分類可能性と予測可能性は厳格な[[カオス]]を除いては一体不可分であり、もとより科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ([[自然の斉一性]])。このため「科学的」でさえあれば未来の予測は正しいとの確信を招きがちである。このような確信は、論理の前提とすべき命題の不知、確率的現象やカオスの存在によりしばしば裏切られる。<!--知の体系が真理に到達していない状況、例えばあるA症患者にX薬が有効とされているところに、A症が新種で未知のB症を併発しX薬が無効(有害)にとなった場合、B症の科学的な知見が得られていなければ(不知)X薬の効能は立証できない。無論個別の「確信」に於いては科学者(医師)の個人的な無知も深刻で重大な課題である。-->
<!--また、{{要出典範囲|''science'' という語は、17世紀の[[科学革命]]のころまでは、体系化された[[知識]]や[[経験]]の総称という意味で用いられてきた}}。-->
<!--体系的でない「知」をscientiaと呼び、体系的な「知」を''natural philosophy'' や''experimental philosophy''と呼んでいたわけではない。そもそも「知」は本来的に体系的である。たとえば[[神秘主義]]は体系を持つ。-->
 
=== 科学の方法論 ===
太古の昔から、自分たちをとりまく自然の現象や自身のからだについて関心を持っていた文明もある。歴史上、[[古代オリエント]]、古代インド、古代中国をはじめとするさまざまな[[文明]]圏において、これらの関心対象を説明するための知識や経験が蓄積され、学問として体系化されていった<ref>アンドレ・ピショ『科学の誕生〈上〉古代オリエント 』、せりか書房、1995年、ISBN 4796701923 </ref><ref>アンドレ・ピショ『科学の誕生〈下〉ソクラテス以前のギリシア 』、せりか書房、1995年、ISBN 479670194X </ref><ref>平田寛『図説 科学・技術の歴史―ピラミッドから進化論まで 前約3400年‐1900年頃』、朝倉書店、ISBN 4254102038</ref>。[[古代]]に形成された学問の諸体系のなかでも後世に大きな影響力を残したのが[[古代ギリシア]]の哲学である。古代ギリシャの知識を直接に継承したのはヨーロッパではなくイスラム世界であった{{Sfn|佐々木力|1996|p=30}}。[[中世]]においては[[イスラム科学]]が最も先進的な地位を占めることになった。後進地域にすぎなかったヨーロッパは、先進のイスラム諸国から科学や技術を輸入し、長い年月をかけて追いついた歴史がある<ref>都築洋次郎『世界科学・技術史年表』、原書房、ISBN 4562021918</ref>。
 
=== 古代ギリシャの科学 ===
古代ギリシャでも[[自然哲学]]と呼ばれる自然に関する考察は行われていたものの、当時の知的探求フィロソフィアの主たるテーマは倫理的なものや社会的なものであったので、自然哲学はそれ単独で行われるというよりも、哲学の中の一部として行われており、知的活動としては脇役的な存在ではあった<ref>世界大百科事典</ref>。
 
[[タレス]]は神話的思考の伝統から断絶し、「万物の[[アルケー]]は水である」と見なしたという。コスの[[ヒポクラテス]]は経験主義的医学を生んだ{{Sfn|佐々木力|1996|p=28-29}}。また徹底して根拠を求める思考習慣が、「論証」や「証明」を鍵とする、理論的形態の数学を生み出した。西欧的「合理主義」の源流はこのような思考形態に求められる{{Sfn|佐々木力|1996|p=28}}ともされる。
 
古代ギリシャの古典科学は、大きく分類して二つ(ないし三つ)の構成要素から成り立っている{{Sfn|佐々木力|1996|p=28}}ともされる。理論数学、および経験的自然学(および、それを基礎とした医学・医術)である。
 
ここでいう理論数学とは、議論の出発点に諸原理([[定義]]や[[公理]])を置き、そこから何らかの命題が真であることを論証してゆく形態の数学のことであり、演繹的に命題群を証明してできた体系を「公理論的数学」という。このような数学を、キオスのヒポクラテスが体系づけはじめ、[[紀元前300年]]ころには、[[ユークリッド]]が『[[原論]]』を編纂し、集大成した。ユークリッドの『原論』を幾何学の書とするのは誤解であり、算術を含んでいた。当時の純粋数学は、[[離散量]]についての理論的学科としての[[算術]]と、数直線から構成される[[連続量]]についての幾何学を含んでいた。離散量を扱う算術の応用に[[音階学]](現在の[[音楽]])があった。当時すでに幾何学は[[平面幾何学]]と[[立体幾何学]]を含んでおり、立体幾何学の応用部門として[[天文学]]が存在していた。
 
physica[[自然学]]は論理的・経験的方法で営まれた。今日その代表例と見なされているのが[[アリストテレス]]の『[[自然学 (アリストテレス)|自然学]]』であり、日常的[[観察]]と徹底した論理的思索によって成っていた。尚、自然学では議論できない自然を超えた存在、超越的存在、自然現象を生じさせる究極の原因などは、アリストテレスの学問体系では『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』において扱われた。数学と自然学の間の中間的な学問としては、視学(今日の[[光学]])、[[機械学]]、および前述の音階学、天文学などがあると見なされていた。
 
=== イスラーム科学 ===
{{See also|イスラム科学}}
古代ギリシャ科学を直接に継承したのは、ヨーロッパ世界ではなく、[[イスラーム]]を基礎とし、[[アラビア語]]を共通言語として成立している世界(すなわち[[イスラーム世界]])であり、[[地中海]]の広大な地域であった{{Sfn|佐々木力|1996|p=30}}。この科学は一般に「[[イスラム科学|イスラーム科学]]」もしくは「アラビア科学」と呼ばれている。このイスラーム科学は9世紀から13世紀まで栄え、世界の科学をリードしもした{{Sfn|佐々木力|1996|p=30}}。
 
[[インド数字]]による計算法(今日の算用数字による[[計算]]法の起源)、Al-jabr[[アルジャブル]]という[[未知数]]を使った計算理論が、[[フワーリズミー]]によって数学理論に加えられた(これは現在の[[代数学]]({{Lang-en-short|Algebra}})へとつながるものである)。自然を実践的・実験的に操作する学問として[[錬金術|Al kimiya]]が重視されていた{{Sfn|佐々木力|1996|p=30}}(Al kimiya(錬金術)は[[化学]]の源流となった)。イスラーム科学には研究センターが存在しており、バクダードに[[バイト・アル・ヒクマ]]([[知恵の館]])があった{{Sfn|佐々木力|1996|p=30}}。
 
=== 中世ラテン科学 ===
イスラームで発展した先進の諸知識(フィロソフィア、現代で言う「科学」を含む)は、12世紀ころになると、大量のアラビア語文献が[[ラテン語]]に翻訳される形で[[中世ヨーロッパ]]世界に導入されるようになりはじめた{{Sfn|佐々木力|1996|p=31}}(この大翻訳運動を'''12世紀ルネッサンス'''とも言う{{Sfn|佐々木力|1996|p=31}})。それによってイスラーム世界に継承されていた古代ギリシャの知識が流入するようになり、それまでヨーロッパの人々は[[アリストテレス]]を知らなかったのであるが、アラビア語からラテン語へ翻訳された形で接するようになった。(また、数は少ないが、直接ギリシャ語からラテン語に翻訳された文献も一部にはあった{{Sfn|佐々木力|1996|p=31}}。)
 
13世紀になると、上記のごとく流入してきたアリストテレス的学問がキリスト教的に解釈しなおされて、キリスト教的なアリストテレス主義の哲学(学問)体系が現れた{{Sfn|佐々木力|1996|p=31}}。これは[[スコラ哲学]]と呼ばれる。中世の学者らはアリストテレスの用語や概念で思索を行うようになったのである。
<!--中世の大学での講義では、現実の観察結果が古典に書かれた内容と異なるものであれば、古典の[[テクスト]]が正しいとされていた。--> <!--要出典範囲|古代から中世にかけての諸学問は、[[客観]]性や論理的な[[推論]]の過程を重視する学問的態度を伴ったものではなかった}}。すなわち、{{要出典範囲|今日の[[自然科学]]が不可欠の要件としている態度である[[論理実証主義]]を欠いていたのであるという。-->
 
この中世ヨーロッパの学問(スコラ学)に含まれる(現代で言うところの)科学関連の知識を抽出したものは、それの記述に用いられていた言語(=ラテン語)にちなんで'''[[中世ラテン科学]]'''と呼ばれることがある{{Sfn|佐々木力|1996|p=31}}。
 
この「中世ラテン科学」の傑出した人物としては[[アルベルトゥス・マグヌス]]と[[トーマス・アクイナス]]を挙げることができる{{Sfn|佐々木力|1996|p=31}}。同時代、イギリス側では[[ロジャー・ベーコン]](1214 - 1294)が当時世界の最先端にあったアラビア科学の文献を読み、当時のヨーロッパとしては珍しく、実験や観察を重視した。[[ビュリダン]](1295頃 - 1358)は[[インペトゥス理論]]を構築した。
 
== 近代科学 ==
前述のごとくscientiaないしscienceという用語は、もともと単に”知識”という意味であり、17世紀当時でもきわめて広義に用いられていたので、今日的な意味での「近代自然科学」の意味で使う人が現れた時期がいつなのか探るのは困難であり、せいぜい、"精密自然科学が成立したのと同時"というほかはないという{{Sfn|佐々木力|1996|p=5}}。つまり、その時期に現代で言うところの精密科学的な活動をする人が一部現れたのだから、scientiaという言葉がそれを指す場面もあらわれたのではないか、語にそういう意味が加わったと見なすことも可能ではあろう、という程度のことである。ごく一部、例えば学問基準を定めようとしていたトーマス・ホッブズが自著の中でscientificusという言葉を用いた時の用法が、現代風の精密科学という意味にいくらか似ているとはいう。だが、その事例ですら「論証的学問」という意味も引きずっていたといい、やはりはっきりしない<ref>具体的には、トーマス・ホッブズの『物体論』で「[[幾何学]]はscientificusであるが、[[倫理学]]はscientificusではない。」という表現が見られることである。</ref>{{Sfn|佐々木力|1996|pp=5-6}}。
<!--近代的な科学は、古典のテクストにとらわれることなく、現実の観察結果や実験結果を重視することで、発展してきた。-->
 
20世紀の[[歴史学者]][[ハーバート・バターフィールド]]は、[[17世紀]]の[[ヨーロッパ]]において、自然現象を単に眺めて考察するという状態から一歩進んで、自然法則が作用する環境をさまざまな撹乱要因を取り除いて人為的に作り出す試み、すなわち[[実験]]([[冒険]])という手法を採用して、実証的に知識体系を進歩させていくという知的営為が形成されたとした。バターフィールドはこれを「[[科学革命]]」と名付け、人類史上における一大画期であるとして高い評価を与えた<ref>[[ハーバート・バターフィールド]]著、渡辺正雄訳 『近代科学の誕生』、講談社学術文庫、1978年</ref>。
 
== 非西洋科学 ==
 
長らく西洋より高度な水準にあった中国科学は、[[天文学]]や[[物理学]]などの領域では17~18世紀頃に西洋科学に並ばれ、ついには追い抜かれもした。だが、対象が[[生命]]に関する領域や、[[有機体論]]的な性格を帯びた領域では、単純に西洋が優れているわけではない{{Sfn|佐々木力|1996|p=93}}。特に'''[[医学]]'''の領域である。そうした、中国の科学が優れた分野として、例えば[[ニーダム]]は[[伝統中国医学|中医学]]の[[鍼|鍼療法]]を挙げている{{Sfn|佐々木力|1996|p=93}}。中国や日本における臨床結果から一定の効果があることが知られていて、症状によっては西洋医学でも治せないものが、鍼療法でなら治せるというものがあるが、西洋医学の理論体系では鍼療法がなぜ効くのかその原理をうまく把握することが出来ないでいる{{Sfn|佐々木力|1996|p=93}}。それがなぜ効くのかの解明は、中国・日本などの協力でなされなければならない{{Sfn|佐々木力|1996|p=93}}、と佐々木は述べた。
 
中国科学の体系を西洋科学では把握することができないのである。西洋医学は西洋的な考え方をし、東洋医学は東洋的な考え方をしているという。(素朴な人は“科学は事実を記述している”などと思うが、それは一種の幻想なのであって)考え方・理論が異なると、同じ症状を眼の前にしても、[[解釈]]が異なり、異なった姿が描き出されることになる{{Sfn|三浦於菟|1996|p=2}}。症状が同じでも、考え方が異なると、そこに別の病気の実態を見ているのである{{Sfn|三浦於菟|1996|p=2}}。他の理論体系を理解するには、まず、ものの見方・考え方によって森羅万象が異なった姿に見えてくる、ということに気付くことが第一歩になる{{Sfn|三浦於菟|1996|p=2}}。それはちょうど、同じ風景を見て描いても描く人によって全然異なった風景画ができあがるのと同じようなことだという{{Sfn|三浦於菟|1996|p=2}}。からだを見る見方にも、《関連する一連の<u>構造物</u>》と見なす観点と、《相互に依存しあう一連の<u>機能</u>》と見なす観点があるが、[[西洋医学]]は構造物と見てしまう傾向があり、[[東洋医学]]は機能に着目する傾向がある{{Sfn|weil|1999|p=27}}。中医学は、構造にあまり重きを置かなかったおかげで、そのかわりにからだの諸<u>機能</u>同士の関係を明らかにしてきた歴史があり、そのおかげで患者の[[健康]]を増進させることができたのである{{Sfn|weil|1999|p=27}}。
 
《構造物》にばかりこだわる者たちは、無思慮なことに、大切な免疫器官を破壊してしまったのであり、《機能》を重視する東洋の医学者・科学者は、それらの器官の有益な働きを増強する具体的な方法を開発した{{Sfn|weil|1999|p=27}}とワイルは指摘した。
 
また、西洋でデカルトなどが主張した結果18~19世紀に人々に広まってしまった(内的な力を無視し、外的な力ばかりにこだわる思考様式としばしば関連のある<ref>(注)[[ルネ・デカルト|デカルト]]は一方で懐疑論を唱えながらも、他方、その実は[[素朴実在論]]で世界を見ており、モノは外からゴツンとぶつからなければ動きに変化はない、というような固定観念にとらわれていた。(その結果、[[渦動説]]を唱えた。)デカルト個人の素朴な考え方が西洋の学問の世界で後の時代にまで影響を及ぼすことになった。</ref>)機械論という[[パラダイム]]に問題があると指摘されることもあり<ref>*手島 恵「連載 ものの見方・考え方と看護実践(2) 新しい世界観とは何か?」1998年 [http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n1998dir/n2283dir/n2283_09.htm]</ref>、さらに機械論に加えて西洋医学の[[還元主義]]というパラダイムも問題だと指摘されており、(還元主義は、ただの絵空事の[[ドグマ]](=教義)としては成立するかも知れないが<ref name='nijuuichi'>『21世紀の医学・医療 日本の基礎・臨床医学者100人の提言』日経BP社、1995年</ref>)本物の生命を相手にする臨床の場においては全然間違っていて、非常に問題があるものだ、との指摘されることもある<ref name='nijuuichi' />。
<!--東洋と西洋の医学を比較して、[[東洋医学]]は人体の[[自然治癒力]]を引き出すことに優れている、それに対して[[西洋医学]]はそれが苦手だとか反対に[[医原病]]を引き起こしてしまう、といったことはしばしば言われている<ref>石原結實『東西医学 自分で診て治す21世紀の健康術』 </ref>。19世紀や20世紀前半には、“西洋科学的な西洋医学が人々の健康を改善した”などという誤った[[神話]]が作り出され人々に広まったが、実態はそんなものではなかった<ref>(注)医療の領域における神話については、、黒田浩一郎『医療神話の社会学』世界思想社が参考になる。</ref>が、20世紀半ばすぎには、実際には西洋医学がひどい[[医原病]]を引き起こしているということが一流医学誌などで客観的・実証的データなどに基づいてしだいに指摘されるようになり、欧米では人々は西洋医学を敬遠し、[[代替医療]]を好む傾向が生まれた。-->
<!--科学というより医学の説明。ページ自体も医学関連に偏っており、「非西洋科学」の説明とは言い難い。-->
 
== 日本語における「科学」 ==
===「科学」という言葉が持つ意味の変遷===
「科学」という語は、[[中国]]では、12世紀に南宋の陳亮という人が[[科挙]]で試される学問「科挙之学」の略語として使ったことが知られている。しかし科挙の意味は、科目ごとの試験によって官吏(かんり)を選ぶという意味であった。
これが日本に入ってきたと言われている{{Sfn|佐々木力|1996|p=3}}。 
 
幕末から明治にかけての日本では、中国語を借りて「科學」という語が使われはじめた。[[井上毅]](『学制意見案』1871年)、[[福沢諭吉]](『[[学問のすすめ]]』)1874年、[[西周 (啓蒙家)|西周]](『明六雑誌「知見四」』1874年)に「科學」という言葉が使われている{{Sfn|佐々木力|1996|p=3}}。 (字体は[[国語国字問題|新字体の採用]]により「科学」と書くようになった。) ただし日本語で「科学」という用語は、自然科学のために排他的に使われた言葉ではなく、一般に「個別学科」を意味していた{{Sfn|佐々木力|1996|p=18}}。
 
[[明治元年]]には[[福澤諭吉]]が執筆した日本初の科学書である『[[窮理図解]]』が出版されている。また、[[明治時代]]に ''science'' という語が入ってきた際、啓蒙思想家の[[西周 (啓蒙家)|西周]]が、その訳語として「科学」を当てた<ref>[[佐々木力]] 『科学論入門』、岩波新書、1996年、ISBN 4004304571</ref>。
 
明治が進み、日本で学問教育体制が整うにつれて、「科学」という用語は、今日的な意味での「近代自然科学」という意味で用いられ定着していった。 更にその使い方が中国に伝播して、中国でもサイエンスの意味に使われるようになったと考えられている{{Sfn|佐々木力|1996|pp=3-4}}。
 
英語、フランス語のscienceの訳語としては、「[[理学]]」という言葉も用いられた。これは、近代日本で自然科学の高等教育を授ける場の「理学部」、学位の「理学博士」などの制度的名称として残っている(尚、フランスで教育を受けた中江兆民はphilosophie(philosophyのフランス語)に「理学」という訳語を与えたが、他の訳語の「[[哲学]]」のほうが定着した)。
 
また、明治時代の日本では「[[理学]]」は、(今日で言う)自然科学と工学を総称する言葉であった<ref>辻哲夫『日本の科学思想 - その自立への模索』1973年</ref>{{Sfn|佐々木力|1996|p=18}}のであり、今日で言う「科学技術」に似た意味を持っていたことになる{{Sfn|佐々木力|1996|p=18}}。東アジアに西欧近代科学が体系的な形でもたらされたのは19世紀後半であったが、ちょうどこの時期ヨーロッパやアメリカでも科学と技術の融合が進み、そのような状態で科学と技術を受容した東アジア諸国の人々は科学と技術を簡単には識別できなくなった{{Sfn|佐々木力|1996|p=20}}。
 
===近代科学が導入された当時の日本の事情===
自国において科学を成熟させ、制度化して専門分化させてきた西洋諸国(特にドイツ)と違い、[[明治政府]]はそれらの「科学」(すなわち「分科の学」)を導入していった経緯を持っている{{Sfn|佐々木力|1996|p=15}}。 
 
当時の日本の国家戦略が確定した経緯として、[[伊藤博文]]が起こした「[[明治十四年の政変]]」がある。 これは当時、イギリスとフランスをモデル国家にしようとしていた自由主義派と、ドイツ帝国、中でも[[プロイセン]]をモデル国家にしようとする、天皇制絶対主義派があり、伊藤博文が主導して自由主義派を追い落とした政変で、これにより日本はドイツのプロイセンをモデルとする方向に定まった。 明治政府は近代国家をめざして、1877年に[[東京大学]]を創立し、[[1886年]]には、それを西欧科学導入を目的として「[[帝国大学]]」の名で再編したが、その際「ドイツ近代大学」がモデルとされたのはそういう理由からである{{Sfn|佐々木力|1996|pp=14-17}}。
 
イギリスでは別の学問モデル(個別学問分野での専門的研究を中心とするのではなく、全人教育)を採用していたのに対して、ドイツ学者は自分が従事する学問の意味を深く問うこともなく、特定分野で業績をあげることばかりを追求し、他の学問分野については驚くべき無知さをあらわにしつつあった(と当時のイギリス人が観察していた){{Sfn|佐々木力|1996|p=17}}。
 
ヨーロッパでは、文化・学問はしっかり根があり、系統立っている(ササラ型の)構造であるのに対し、日本では、共通の根を切りすててしまい、狭い分野に独立して独創的研究で成果をあげる事が求められる(タコツボ型の)構造になっているのには上記のような歴史的事情による<ref>丸山眞男『日本の思想』1961</ref>{{Sfn|佐々木力|1996|p=17}}。
 
== 科学的手法 ==
{{see also|科学的方法}}
科学の根本的な原理については一部の著名な科学者や科学哲学者らによって活発な議論が行なわれたわけだが、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについては、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを地道に発達させてきた。
科学的手法とは、ある事物や現象を説明するにあたり、考えられる様々な仮説から、再現性を持つ実験や観測を行い、その結果に矛盾しない説明を選びだすプロセスの事である。 科学的説明には、用いた実験方法や測定方法が公開され、第三者に検証される事が重要である。 また、実験や測定には、ある程度の精度がある事が望ましいとされる。
 
例えば[[物理学]]や[[無機化学]]は、対象のもっぱら無機的・機械的なレベルでの振る舞いに限定して着目し、実験で同一の現象が再現されることを重視しており、その記述は、一般法則や全称命題が中心である。[[天文学]]や[[考古学]]など、実験や冒険による実証が極めて困難な領域においては、十分な観察と分類にもとづき学問を成立させており、これらの学問も科学的な知見として尊重されている。
=== 科学と非科学の境界設定 ===
{{main|線引き問題_(科学哲学)}}
何が科学で何が科学でないのか、数世紀におよぶ議論は混沌としていたが、[[20世紀]]前半の[[科学哲学]]者[[カール・ポパー]]が[[反証可能性]]の概念を提示し、それを条件とすることで[[理論]]が科学(彼が考える狭義の科学)に属するかそうでないかを線引きできることを示してみせた。混沌とした議論に悩まされ続けていた科学者らの中には[[反証可能性]]の概念や[[反証主義]]をひとつの解決策として歓迎する人が多かった。現在でも、これを科学と[[疑似科学]]とを区分する基準として採用する人は多い
<ref>[[伊勢田哲治]]『疑似科学と科学の哲学』、名古屋大学出版会、ISBN 4815804532 など</ref>。
 
生体によって引き起こされる現象を扱う[[医学]]、[[薬学]]、[[心理学]]や、人々の巨大な[[社会]]集団を扱う[[経済学]]、[[社会学]]は、考察対象とする生体や社会そのものが根本的に複雑性や複合性を内包している。これらにおいては個体差が重要な要素となったり、対象が情報を記憶することで内部状態を変化させてゆくものであり、現象の再現性を問うこと自体が困難である場合が多い。そのため、物理学や無機化学におけるような決定論的な手法のみならず、統計論的な手法やその他の手法も適用されている。
(ただし、ポパー流の視点に基づけば、「光の速度は不変である」という仮説をおくことは、観察によって反証することが可能なので、科学たりうる。一方、[[ジークムント・フロイト]]の[[精神分析学]]や[[カール・マルクス]]の[[マルクス経済学]]は、観察によって反証するすべを持たないので、これら科学とは呼べないことになる。)
 
詳細は[[科学的方法]]で述べる。
こうしたポパーの科学観に対しては1960年代から批判が加えられるようになった。その代表は科学史家[[トーマス・クーン]]の[[パラダイム]]論である。パラダイム論によれば、観察は、データを受動的に知覚するだけの行為ではなく、パラダイムすなわち特定の見方・考え方に基づいて事象を能動的に意味付ける行為である。従って、パラダイムそのものは個別の観察によって反証されるのではなく、別のパラダイムの登場によって「[[パラダイムシフト]]」の形で覆される。
 
==自然科学と科学技術==
また、科学に属する諸学問は科学的であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。
 
なお、[[論理実証主義]]をベースにし、「検証できないものは科学ではない」と考える科学者も未だに少なくないが、これには論理実証主義それ自体の検証が非常に困難であることをはじめ、数多くの理論的困難に出会い頓挫するため、これを境界の根拠にするのは難しい。
 
=== 具体的な科学の適用論 ===
科学の根本的な原理については一部の著名な科学者や科学哲学者らによって活発な議論が行なわれたわけだが、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについては、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを発達させてきた。
 
[[物理学]]や[[無機化学]]は、対象の無機的・機械的なレベルでの振る舞いに限定して着目し、実験で同一の現象が再現されることを重視しており、その記述は、一般法則や全称命題が中心である。
[[天文学]]や[[考古学]]など、実験や冒険による実証が困難な領域においては、十分な観察と分類にもとづき学問を成立させており、これらの学問も科学的な知見として尊重されている。
 
近代の経済学者たちは、経済学を、ただの蓋然的言説ではなく科学的なものとしようと試みてきた{{Sfn|佐々木力|1996|p=7}}。
 
生体によって引き起こされる現象を扱う[[医学]]、[[薬学]]、[[心理学]]や、人々の巨大な[[社会]]集団を扱う[[経済学]]、[[社会学]]は、考察対象とする生体や社会そのものが根本的に[[複雑性]]や複合性を内包している。これらにおいては個体差が重要な要素となったり、対象が情報を記憶することで内部状態を変化させてゆくものがあり、現象の再現性を問うこと自体が困難である場合が多い。そのため、物理学や無機化学におけるような手法に加え、統計論的な手法やその他の手法も適用されている。
 
現代における[[科学的方法]]に関する一つの指針としては、[[アメリカ科学振興協会|全米科学振興協会]]による「[[科学的方法#現代における科学的な方法|すべてのアメリカ人の科学]]」がある。
 
科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ([[自然の斉一性]])。このため予測が「科学的」といえども、絶対的な確信は危険である。論理の前提とすべき命題の不知、確率的現象やカオスの存在により、しばしば裏切られるからである([[バタフライ効果]]、[[カオス理論]]、[[複雑系]]などをそれぞれ参照)。
 
== 自然科学、数学、応用科学 ==
{{see also|自然科学}}
[[19世紀]]後半以降、''science'' という語は狭義において「自然科学」の意味で用いられるようになった。今日では、多くの局面において「科学」と言えば暗黙裡に「[[自然科学]]」を指していることも多い。自然科学は、[[自然]]の成り立ちやあり方を理解し、説明・記述しようとする学問の総称である。[[物理学]]、[[化学]]、[[生物学]]などの[[理学]]と呼ばれる分野と、[[医学]]、[[農学]]、[[工学]]などの[[応用科学]]と呼ばれる分野とを含んでいる。なお、今日では便宜上、19世紀以前の自然哲学の諸研究も、自然科学の一部として分類し扱っている。
156 ⟶ 50行目:
[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]では、科学者は国家によって動員され、[[化学兵器]]や[[核兵器]]の開発によって戦争の帰趨に影響を与えた。戦後、[[科学技術政策]]は国家政策においても重要な要素として取り込まれている。また科学技術の一層の進歩により、科学は社会から遊離した純粋な知的営為として位置づけることは困難となっている。
 
==現代日本語における「科学の諸問題==
「科学」という語は、[[中国]]では、[[科挙]]で試される学問「科挙之学」の略語として[[10世紀]]頃から使われていた。日本では、「科学」は様々な学問(分科の学)という意味で用いられていたが、[[明治時代]]に ''science'' という語が入ってきた際、啓蒙思想家の[[西周 (啓蒙家)|西周]]がこれを様々な学問の集まりであると解釈し、その訳語として「科学」を当てた<ref>[[佐々木力]] 『科学論入門』、岩波新書、1996年、ISBN 4004304571</ref>。当初は「科學」と旧字で表記されていたが、[[国語国字問題|新字体の採用]]により「科学」と書くことになり、現在に至っている。
{{観点|現代科学の問題について|section=1|date=2010年7月}}
===科学の肥大化===
池田清彦によれば、18世紀ごろまでは、科学はアマチュアによって行われており、「[[科学者]]」という職業はなかった、と言われている。19世紀の終わりから20世紀にかけて、大学に科学系の学部が設置された。
19世紀になると、フランスの[[エコール・ポリテクニーク]]に代表されるように、科学技術教育の制度化が一部で行われるようになったが、まだ科学は基本的には一部の(大学の専門教育制度を経ていない)天才的な者(ベンツ、デュポン、エジソンなど)によって担われていた。
だが、20世紀になると、[[軍事力]]強化、[[富国強兵]]などを目指す国家は国策として、科学技術の興隆に力を入れ、それにより若者が高等教育機関に吸い寄せられ、養成機関を経て科学者や技術者になる者ができる制度ができた(科学の制度化)。それにより科学の探究が職業化するという現象が起き(科学の職業化)、同時に科学に「天才の科学」から「凡人の科学」への転換が起きたという。
つまり、科学をあくまで「身すぎ世すぎ」(生活費を稼ぐこと)のための道具とする人々が出現することになった。科学に必要な興味が無くなっても、才能が枯渇しても、そもそも才能が足りなくても、おいそれとは研究をやめるわけにはいかないというような人々が出現したのである{{Sfn|池田清彦|2006|pp=150-152}}。
 
中国においても、用語に若干の違いはあるものの、''science'' の訳語として「科学」が使われている。
20世紀を通して成長した科学は、技術と一体化し、エレクトロニクス、情報通信技術、生命科学技術などの分野でそのメリットが認められ、拡大の一途をたどってきた。それにともない、科学研究に投入される資金の額は増加の一途をたどってきた。科学コミュニティのメンバーの数がみるみる増大し、各メンバーが使う資金や各メンバーの人件費の総額も加速度的に大きくなってきたのである。だが、その結果、社会・国民が供給可能な[[資金]]・[[資源]]には限界があることは直視せざるを得ないようになっている。科学研究を行うということは[[資源]]や[[資本]]の使用が伴うが、現代の科学が使っている資源・資本の量はすでに社会が供給できるものの限界に迫りつつある
<ref>『科学の社会科シンドローム』p.3-5</ref>。
 
==脚注==
池田清彦は「科学は資金面に関しては、社会の[[寄生虫]]のようなもの」と表現している<ref>池田清彦『科学とオカルト』p.182</ref>。
また、「現代科学は、自己増殖という欲望をもつ生命体に似ている。ひとたび科学のある専門分野が巨大化の道をたどり始めると、これを止めるのは容易ではない。(科学が巨大化すると)そこにつぎ込まれるカネが膨大になるわけだから、それで食ってる奴が大勢でてくる。関係者にとってみれば、[[巨大科学]]がつぶれるかどうかは死活問題であるから、さらなる巨大化のために、あらゆる努力を惜しまないことになる」とも述べている
{{Sfn|池田清彦|2006|pp=179-|loc=「巨大科学の問題点」}}。
 
また、「[[巨大科学]]は、なんだか日本の公共工事に似ている」とも述べている。かつてはそれなりの経済効果があったが、最近では意味がないものが多く、借金だけが累積するという最悪の構造になっている。(土木事業の例だと)もうかるのはゼネコンとそれに癒着した政治家だけであり、国と地方自治体の借金は膨大になっており、国民が税金を徴収される形でそれを払わなければならない状態であり、「大多数の国民にとってメリットよりデメリットの方がはるかに大きい」と述べている。一度、制度として作られたものを変化させることは、いかなる制度であっても容易ではなく、「公共事業が大変なお荷物になったのと同じように、巨大科学もまた、やっかいなお荷物にならない保証はない」と述べられている
{{Sfn|池田清彦|2006|p=181}}。
 
巨大科学の成果が、(一部の科学関係者にとっての満足を除けば、)普通の人々にとっても、莫大な資金・資源を費やすほどの価値のあるものであるかということは自明ではないとされる。例えば、素粒子の発見などに使うカネがあったら、今この瞬間も苦しんでいるアフリカの難民たちの命を救うべく援助するべきだろう、と普通の人々は考えているかも知れないのであり、巨大科学などに費やしたりせず、「(そもそもは自分のお金であった)税金を返せ」と普通の人は思っているかも知れないのである
{{Sfn|池田清彦|2006|p=179}}。
 
[[科学者]]には、"学術雑誌に沢山論文を書いた学者に、地位と報酬を与えるのは当然だ"といった考えが深く染み付いているのだろうが、それはあくまで科学者仲間の内部にしか通用しない理屈であって、科学の[[パトロン]](特別なこととして資金を提供している側)である社会・国民は、それで納得するとは限らないとも指摘されている
<ref>池田清彦『科学とオカルト』p.182「問われる市場価値」</ref>。
 
また、「科学」という名のシステムの内部でパイの奪い合いが起きている{{Sfn|石黒武彦|2007|p=5}}とされている。
 
池田清彦は次のように説明する。(税金の名目で)国家(政府)に集められたお金が支出されるとなると、このお金を誰が使うか、誰が自分の懐に入れるか、ということについて競争が起きる。名目上(あるいは建前として)このお金は国民の福祉に使われることになっている。すると、もっともらしいお話が作られなければならないなどと考える者が出てくる。「直接的な市場価値を有さない[[基礎科学]]の場合、これはほとんどウソつき競争のようになってくる可能性が高い」と池田清彦は述べている。例えば、発生学の研究者が"自分の研究が将来、ガンの治療や老化の防止に役立つ"と言って、(元は国民が払った税金の)研究資金を得て、研究を行い、後でその研究がガンの治療や老化の防止に全く役立たない、と判明しても、解雇もされないし、咎められない(このような事は民間企業では許されない)。
おまけに、この資金で論文を数篇書けば、科学者仲間では評価が高くなるのだという。だが、このような社会をゴマかすやり方、国民全体を欺くようなやり方が、いつまでも通用するかどうかは明らかではないと池田清彦は述べている
<ref>池田清彦『科学とオカルト』p.184-p.185</ref>。
 
===科学者による不正行為===
上述のとごく、社会(国民)が供給できる資金には限りがあり、その資金で雇うことのできる科学者の数、ポストの数は限られている。ところが、科学システムの拡大を指向する科学コミュニティはメンバーを累増させるべく様々な活動を行い、大学は大学院生の数を増やし続けてきた。その結果、科学者になろうと計画し大学院を出た者の多くは容易に職に就くことができず、数年ほど[[ポストドクター]]として働くことはできても、その後の未来が不透明な状態になっている。
 
このような者たちは、“専門家として生き残るためには、何らかの「業績」を示し、それにより評価されることで研究資金を供給されなくてはならない” などと考えることになる。現代の制度化された科学システムは、一度糸口をつかむと、流れに乗ることができるような構造があるが、成果は必ずしも努力に見合うような形で得られるものではない。このような状況で焦りに駆られて、研究におけるデータの偽造やねつ造を行う研究者が、近年目立つようになっている{{Sfn|石黒武彦|2007|pp=6-7}}。
 
研究者が、科学の研究において行うデータの偽造や研究の捏造は「'''[[科学における不正行為]]'''」と呼ばれている。
 
=== 諸問題関連項目 ===
* [[巨大科学]]
* [[科学における不正行為]]
 
=== 関連項目 ===
*[[複雑系]]
*[[非線形科学]]
*[[全体論]]
*[[有機体論]]
*[[非局所性]]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2reflist}}
 
== 参考文献 ==
*[[トーマス・サミュエル・クーン]]著、常石敬一訳 『コペルニクス革命―科学思想史序説』、講談社学術文庫、1989年
* {{Cite book|和書|author=[[佐々木力]]|title=科学論入門|publisher=岩波書店|year=1996|isbn=4004304571 |ref=harv}}
*[[アラン・チャルマーズ]]著、高田紀代志・佐野正博訳 『科学論の展開―科学と呼ばれているのは何なのか?』、恒星社厚生閣、1985年(新版)
* {{Cite book|和書|author=池田清彦|authorlink=池田清彦 |title=科学はどこまでいくのか|publisher=筑摩書房|year=2006|isbn=978-4480422811 |ref=harv}}
*[[ジョン・デスモンド・バナール]]著、鎮目恭夫訳 『歴史における科学』全4巻、みすず書房、1966年
* {{Cite book|和書|author=石黒武彦|title=科学の社会化シンドローム|publisher=岩波書店|year=2007|isbn=978-4000074711 |ref=harv}}
*[[ハーバート・バターフィールド]]著、渡辺正雄訳 『近代科学の誕生』、講談社学術文庫、1978年
* {{Cite book|和書|author=三浦於菟|title=東洋医学を知っていますか|work=新潮選書|publisher=新潮社|year=1996|ref=harv}}
*[[村上陽一郎]]編 『現代科学論の名著』、中公新書、1989年
* {{Cite book|和書|last=Weil|first=Andrew|author=アンドルー・ワイル|authorlink=アンドルー・ワイル|translator=上野 圭一|title=心身自在|work=角川文庫|publisher=角川書店|year=1999|ref=harv}}
* [[ーバートンスライヘンターフィールドッハ]]著、渡辺正雄市井三郎訳 『近代学哲学の誕生形成』、講談社学術文庫みすず書房19781985
* 石黒武彦『科学の社会化シンドローム』岩波書店、2007年 ISBN 4000074717
<!--ここはただの関連文献。出典が正確に(できればページ明記で)ひもづけされているものだけを参考文献に格上げする-->
* [[トーマス・サミュエル・クーン]]著、常石敬一訳 『コペルニクス革命―科学思想史序説』、講談社学術文庫、1989年
* [[アラン・チャルマーズ]]著、高田紀代志・佐野正博訳 『科学論の展開―科学と呼ばれているのは何なのか?』、恒星社厚生閣、1985年(新版)
* [[ジョン・デスモンド・バナール]]著、鎮目恭夫訳 『歴史における科学』全4巻、みすず書房、1966年
* [[村上陽一郎]]編 『現代科学論の名著』、中公新書、1989年
* [[ハンス・ライヘンバッハ]]著、市井三郎訳 『科学哲学の形成』、みすず書房、1985年
 
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|}} -->
{{Sisterlinks|科学
|wiktionary = 科学
|commons = Category:Science
|wikiquote = 科学
|commons= Category:Science
|wikinews = Category:学術
}}
236 ⟶ 81行目:
* [[科学哲学]]
* [[科学革命]]
* [[科学的方法]]
* [[科学における不正行為]]
 
== 外部リンク ==
*[[小山慶太]][http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A7%91%E5%AD%A6/ 「科学」(Yahoo!百科事典)]
 
{{DEFAULTSORT:かかく}}
[[Category:哲学の主題]]
[[Category:科学|*]]
 
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