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古くから交易や交流などはあったものの[[ヤマト王権]]の勢力が十分に及ばない[[日本海]]側の地域であり、[[紀元前]]の[[孝元天皇]]の第1[[皇子]]、[[四道将軍]]の[[大彦命]]に平定される前の「越」は諸豪族(豪族[[阿彦]]など)に支配されていたと推定されている。
 
[[日本書紀]]によれば[[粛慎#欽明天皇5年(544年)12月|欽明天皇5年(544年)12月]]、[[佐渡島]]に渡来する[[粛慎]]人のことが越から[[朝廷#日本の朝廷|朝廷]]に報告され、その後[[573年]]に[[高句麗|高麗]]使人が越の海岸に漂着、船が難破し多数の[[溺死]]をみたこと、翌年にも彼らの漂着が報告され、[[589年]]になると朝廷は[[阿倍氏|阿倍臣]]を[[北陸道]]に派遣して越など諸国の境界を調べさせている<ref name=fukuikenshi>{{Cite web|url=http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn01.html|title=福井県史 年表:507年 - 700年|publisher=[[福井県立図書館#福井県文書館|福井県文書館]]|accessdate=2010-07-09}}</ref>。
 
[[飛鳥時代#孝徳朝|孝徳朝]](645年~654年)には[[蝦夷]]との境界として[[647年]](大化3年)に[[渟足柵]]が設けられ「越」の北端となり、その後[[磐舟柵]]、初期の[[出羽柵]]までと次第に北端は伸びていった<ref name=kokusidaijiten />。越[[国守]][[阿倍比羅夫]]が[[658年]]水軍180隻を率いて蝦夷を討ったと伝わるなど、一方の安定した西端と比較し、北端は蝦夷との戦いや[[征伐]]があった辺境であった。