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'''田中 玄宰'''(たなか はるなか)は名家老田中正玄(まさはる)四世の孫。[[通称]]は小三郎、加兵衛、三郎兵衛。12歳で家を継ぎ、[[天明]]元年([[1781年]])に34歳で家老に任じられる。田中玄宰は、会津藩の家老であり、会津藩五代藩主松平容頌(かたのぶ)公、六代藩主容住(かたおき)公、七代藩主容衆(かたひろ)公、三代の藩主に仕えた名宰相である。仕当時会津藩に打撃を与えた「天明の大飢饉」、利根川や荒川の改修、江戸城の「手伝い普請」、江戸会津藩邸の消失などの窮地を乗り越えるため、財政、産業、軍制、教育など藩政のすべてにおいて改革を断行した方であります。会津藩は[[天明の大飢饉]]であり、財政も窮乏化していた。玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して辞職。その間、兵学や経済などについて研鑽、研究して一年後復権の際に藩政の大改革「天明の大改革」建議書を上申、提言し「余はこれを可とするものなり」とお墨付きをもらい、改革の実行に着手し、大きな成果をあげるとともに、正玄の改革によって庶民の生活向上、殖産興業の奨励が図られ、漆器・酒造り・絵ろうそくなど今日の伝統産業の基礎が築かれました。また、教育改革における最大の功績は藩校「日新館」の創設であり、会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築いた。隣藩・[[白河藩]]主で[[老中]]もつとめた[[松平定信]]は、家臣に対し「会津の田中三郎兵衛に笑われることなかれ」と訓戒するほど、玄宰を高く評価していた。その精神は現代を生きる私たちの中にも脈々と受け継がれております。更に、政策の一つとされる1808年の「樺太警備」は、ロシアの攻撃に備えて約1600名の藩士が現地での警備についたものであり、その活躍には幕府をはじめ諸藩から絶賛を得たと云われています。[[文化 (元号)|文化]]5年([[1808年]])、[[樺太]]での[[会津藩の北方警備]]の最中61歳で死去。遺言に「我が骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と言った。墓はそれらを見渡せる小田山の山頂にある。家督は長男玄成が相続するも早世し、一瀬家の養子となっていた次男・玄古が帰家してその跡を相続した。幕末には土佐玄清、一門には第二次共産党委員長で、のちに転向し政治活動家となり、昭和天皇のインテリジェンス、 国際的フィクサー、田中清玄がいる