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当然ながら幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の[[藤原忠実]]は立場が弱く白河法皇の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。[[永久 (元号)|永久]]5年(1117年)、白河法皇の養女である[[藤原璋子]](待賢門院)が入内、翌年には[[中宮]]となり5男2女を儲ける。[[保安 (元号)|保安]]4年(1123年)1月23日、長子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇の在位中は、摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥羽天皇の治世において白河[[院政]]が本格化した。
 
白河法皇崩御の後、[[大治 (日本)|大治]]4年(1129年)より[[院政]]を敷く。白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して娘の[[藤原泰子|泰子]](高陽院)を入内させ、白河法皇の側近であった[[藤原長実]]・[[藤原家保|家保]]兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固める<ref>長実は美福門院の実父、家保は鳥羽上皇の側近である[[藤原家成]]の実父であるが、美福門院・藤原家成はむしろ排除側に回りその利権を独占した(佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5)。</ref>。さらに白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、[[藤原得子]](美福門院)を寵愛して、所生の皇子・体仁親王([[近衛天皇]])を即位させた。崇徳・近衛・後白河の3代28年に亘り実権を掌握。[[康治]]元年(1142年)に[[東大寺]][[戒壇院]]で受戒し法皇となった。
 
皇后・美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ、崩御の直後に[[保元の乱]]が勃発する原因を作った。