「大内義興」の版間の差分

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== 伊勢神宮の勧請 ==
[[1514年]][[伊勢神宮]]に参拝した際に大内義興は感銘を受け[[1518年]]8月に山口へ戻ると前例のない[[勅許]]を賜った上での[[皇太神宮]]、[[豊受大神宮]]の[[勧請]]を試みた。当時の伊勢神宮は幕府の神宮頭人の力が及ばなくなり、全国の荘園から届く[[役夫工米]]が滞納された事により慢性的な財政難に陥り、外宮は[[1434年]]内宮は[[1463年]]より[[式年遷宮]]が中断していた。その反面、庶民による[[伊勢信仰]]は広まり南北朝時代頃よりには飛び神明といわれる伊勢神宮の勧請が流行し各地に[[神明神社]]が創建されていた。[[山口大神宮|高嶺大神宮]]の勧請もそうした流れを受けたものであったが、[[吉田神社]]を通じて奏聞され後に[[後柏原天皇]]の「高嶺大神宮」の[[宸筆|御宸筆]]のもと分霊を受けている点<ref>『山口県史 資料編 中世2』</ref>で神明神社の中でも一線を画す。[[1519年]][[11月3日]]に外宮、[[1520年]][[4月8日]]に内宮を造営すると同年[[6月29日]]神宮の御師 高向二頭大夫光定により勧請遷宮が執り行われた。<ref>『高嶺太神宮御鎮座伝記』</ref>当初は高嶺神明と称していたが前述の通り後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後に[[後陽成天皇]]から「伊勢」の[[勅額]]を賜ると昭和22年「山口大神宮」と改称するまで「高嶺太神宮」「今伊勢」と称せられた。[[式年遷宮]]は[[伊勢神宮遷宮前後相論]]に配慮し1540年に外宮・内宮同時に行われている。
 
== 脚注 ==