「カール・バルト」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Okeoke229 (会話 | 投稿記録)
Okeoke229 (会話 | 投稿記録)
51行目:
 
=== 『ローマ書』と『時の間』の刊行 ===
[[File:Karl Barth Church Dogmatics.jpg|thumb|カール・バルト著 <br />
'''『教会教義学』''']]
[[1921年]]からバルトはドストエフスキー、ニーチェ、キェルケゴールを読みこみ、人間の陥る深淵について理解を深めた上で、その知識に基づいて『ローマ書』の改訂版を書き始める。[[1922年]]、『ローマ書』の第二版が完成、出版される。この第二版の出版でバルトの神学が高く評価されるとともに、神学者としての立場を堅いものする。このころに若手の神学者が集まり、弁証法神学の機関誌である『時の間』を刊行する。後に対立し続ける[[エミール・ブルンナー]]と面識をもったのもこのときである。同年に[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]から招聘の手紙を受け取り、教壇に立つこととなる。教壇に立つことになった彼は牧師時代の学問上の遅れを取り戻すとともに、[[自由主義神学]]から改革派教会の[[教義学]]を擁護する任に就く。しかし、聖書を基礎に神学を構築する道が、バルトには明確になっていなかった。[[1924年]]にハインリッヒ=ヘッペの『福音主義改革派教会の教義学』を入手。17世紀の古プロテスタント教会の教義学を知り、正統神学を学びなおすきっかけとなった。[[1925年]]に[[ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学|ミュンスター大学]]に招聘され、[[1927年]]に『キリスト教教義学への序論』、[[1928年]]には『神学と教会』を出版するなど精力的に活動し、名声が徐々に高まっていった。