「シェイ・ヒレンブランド」の版間の差分

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|選手写真ファイル名 = 346 4651 Shea Hillenbrand.jpg
|写真サイズ = 280
|写真のコメント = ジャイアンツ時代(2006年)
|国籍 = {{USA}}
|出身地 = [[アリゾナ州]][[メサ (アリゾナ州)|メサ]]
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|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = [[内野三塁手]]、[[一塁手]]
|プロ入り年度 = 1996年
|ドラフト順位 = ドラフト10巡目
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* [[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|ロサンゼルス・エンゼルス]] (2007)
* [[ロサンゼルス・ドジャース]] (2007)
* [[ヨーク・レボリューション]] (2008)
* [[ブリッジポート・ブルーフィッシュ]] (2012)
* ヨーク・レボリューション (2014)
|選出国 =
|選出年 =
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|選出方法 =
}}
'''シェイ・ヒレンブランド'''('''Shea Matthew Hillenbrand''', [[1975年]][[7月27日]] - )は、[[アリゾナ州]][[メジャーサ (アーグベースボールゾナ州)|MLBメサ]]に所属していた出身の元[[プロ球選手]]([[一塁手]]・[[三塁内野手]])。[[アトランティックリーグ]]の[[ヨーク・レボリューション]]所属
 
== 経歴 ==
[[{{by|1996年]]}}1月6日に、[[ボストン・レッドソックス]]と契約し、プロ入り。
 
[[{{by|1999年]]}}12月21日に、FAとなる。同年1月29日に、レッドソックスと再契約を結ぶ。
 
[[{{by|2001年]]}}4月2日に、同球団からメジャーデビューを果たす。
 
[[{{by|2003年]]}}3月29日に、[[金炳賢]]とのトレードで、[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]へ移籍。
 
[[{{by|2005年}}1月12日に、[[アダム・パターソン]]とのトレードで[[トロント・ブルージェイズ]]へ移籍。約2年ぶりとなる[[アメリカンリーグ]]で、一塁と三塁を半分ずつ守り、[[バーノン・ウェルズ (野球)|バーノン・ウェルズ]]の擁護役としてチーム最多の173安打、リーグ最多の22死球、18本塁打・82打点をマーク。4月は打率.390と好スタートを切り、7月には2002年以来、2度目の[[2005年のMLBオールスターゲーム|MLBオールスターゲーム]]に出場。しかし、打席に立つ機会はなかった。後半戦は調子が上がらず、8月19日を最後に打率は3割を切った。一時は2割8分台まで下降し、9月19日に.299まで戻したものの、最後の3試合で足踏みをしてしまい、最終的には打率3割には届かなかった。
[[2005年]]1月12日に、[[アダム・パターソン]]とのトレードで、[[トロント・ブルージェイズ]]へ移籍。
 
[[{{by|2006年]]}}は起用法を巡り監督の[[ジョン・ギボンズ]]と対立。クラブハウスに「この船(チーム)は沈んでいる」と書き、逆にミーティングではギボンズから「チームの癌」「臆病者」と罵られ、シーズン途中に[[ジェレミー・アッカード]]との交換で[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]へ[[トレード]]された。同年オフに[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム]]へ移籍。
[[2005年]]は、約2年ぶりとなる[[アメリカンリーグ]]で、一塁と三塁を半分ずつ守り、[[バーノン・ウェルズ (野球)|バーノン・ウェルズ]]の擁護役としてチーム最多の173安打、リーグ最多の22死球、18本塁打・82打点をマーク。4月は打率.390と好スタートを切り、7月には2002年以来、2度目の[[2005年のMLBオールスターゲーム|MLBオールスターゲーム]]に出場。しかし、打席に立つ機会はなかった。後半戦は調子が上がらず、8月19日を最後に打率は3割を切った。一時は2割8分台まで下降し、9月19日に.299まで戻したものの、最後の3試合で足踏みをしてしまい、最終的には打率3割には届かなかった。
 
[[{{by|2007年]]}}は、開幕からほぼ[[指名打者]]としてプレーしたが不振に陥ってしまい、出場機会が激減してしまった。そのため、シーズン途中に同じ西海岸の[[ロサンゼルス・ドジャース]]へ移籍した。だが、ここでも不振に加え、[[ノマー・ガルシアパーラ]]の戦線復帰や、[[ジェームズ・ローニー (野球)|ジェームズ・ローニー]]の台頭もあり、三塁手および一塁手の控え要員としてのプレーを余儀なくされてしまった。
[[2006年]]は起用法を巡り監督の[[ジョン・ギボンズ]]と対立。クラブハウスに「この船(チーム)は沈んでいる」と書き、逆にミーティングではギボンズから「チームの癌」「臆病者」と罵られ、シーズン途中に[[ジェレミー・アッカード]]との交換で[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]へ[[トレード]]された。同年オフに[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム]]へ移籍。
 
{{by|2008年}}7月2日に独立リーグ・[[アトランティックリーグ]]の[[ヨーク・レボリューション]]と契約。
[[2007年]]は、開幕からほぼ[[指名打者]]としてプレーしたが不振に陥ってしまい、出場機会が激減してしまった。そのため、シーズン途中に同じ西海岸の[[ロサンゼルス・ドジャース]]へ移籍した。だが、ここでも不振に加え、[[ノマー・ガルシアパーラ]]の戦線復帰や、[[ジェームズ・ローニー (野球)|ジェームズ・ローニー]]の台頭もあり、三塁手および一塁手の控え要員としてのプレーを余儀なくされてしまった。
 
{{by|2009年}}以降は所属球団がなかったが、{{by|2012年}}7月5日にアトランティックリーグの[[ブリッジポート・ブルーフィッシュ]]と契約し現役復帰。
 
{{by|2013年}}は所属球団なく、{{by|2014年}}7月17日にヨーク・レボリューションに復帰した。
 
== 選手としての特徴 ==
外野のギャップを抜いて二塁打を量産する[[ラインドライブ・ヒッター]]で、毎年.270くらいは計算できる。早打ちで有名な打者で、初球打ちの打率がとても高い。あまり四球を選ばないので、打率の割に出塁率が低い。
 
ポジションは[[ホット・コーナー]]のいずれかを守る。近年は[[指名打者]]や[[代打]]での起用も多い。
 
== 年度別打撃成績 ==