「朝寝坊むらく」の版間の差分

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弐鷹 (会話 | 投稿記録)
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[[1907年]]11月には師匠の前名である[[春風亭小柳枝|2代目春風亭小柳枝]]を名乗るも、無断に襲名したため翌年2月に取り上げあげられて柳昇と戻し師匠の所に入られなくなり[[1910年]]頃[[上方落語|上方]]に移り柳生と名乗ったという。「睦会」が結成された時に周囲から東京に呼び戻されて、[[1911年]]頃に再び柳昇で活動し始める。[[1916年]]11月には8代目むらくを襲名し盛大に襲名披露を行った。
 
得意ネタは『[[らくだ (落語)|らくだ]]』『[[替り目]]』『[[胴乱の幸助]]』『[[くやみ]]』など。まだ柳昇を名乗っていた時期に、自ら[[三遊亭圓生 (5代目)|5代目三遊亭圓生]]のもとを訪れて、絶やしてしまうのは惜しいからこの噺はぜひ覚えて演ってくれ、といって『[[らくだ (落語)|らくだ]]』と『[[胴乱の幸助]]』を[[三遊亭圓生 (5代目)|5代目三遊亭圓生]]に、『[[くやみ]]』を[[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]に稽古付けている。その時一緒にいて『[[らくだ (落語)|らくだ]]』を聞いた[[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]は、むらくの芸の実力に感心したという。晩年は耳を患ったため、高座から退いた。1931年、死去。{{没年齢2|1882|6|19|1931|1|1}}。
 
死後身寄りもなく遺骨もそのままだったが、没年[[11月4日]]に9代目(後の[[柳亭芝楽]])が浅草今戸町の勝運寺に遺骨を納め法要を行なった。