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| 退任日=1940年7月11日
| 出生日=[[1871年]]8月29日
| 生地={{FRA1870}}、[[ムルト=エ=モゼル県|ムルト=エ=モゼル県]]、メルシー
| 生死=死去
| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1871|8|29|1950|3|6}}
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| 政党=共和左派→<br />民主同盟(民主共和同盟)
}}
'''アルベール・ルブラン'''({{
1871年8月29日、[[ムルト=エ=モゼル県|ムルト=エ=モゼル県]]、メルシー
1932年、[[ポール・ドゥメール]]が暗殺され後継大統領となり、1939年には再選されたが、国際情勢は[[アドルフ・ヒトラー]]の台頭によって風雲急を告げ、大統領として手腕を発揮できる状況とは程遠かった。1940年、フランスは[[ナチス・ドイツ]]に降伏。ルブランは大統領職を公式に辞任しなかったが、傀儡政権とされる[[ヴィシー政権]]が成立し、国家主席に[[フィリップ・ペタン]]が就任した。ルブランは、7月15日に[[グルノーブル]]郊外の{{仮リンク|ヴィジル|fr|Vizille}}へ避難するが、1943年8月27日には[[ドイツ軍]]に拘束され身柄を[[チロル]]に移送される。10月10日、健康状態の悪化を理由にヴィジルに戻るが、引き続きドイツによる軟禁状態に置かれた。
1944年8月9日、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の攻勢でフランスが解放されると、ルブランも解放された。[[シャルル・ド・ゴール]]と会見し、大統領を正式に辞した。以後、政界を引退し、[[パリ]]に隠棲した。1950年3月6日、パリで肺炎のため死去。
== 外部リンク ==
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