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[[蔡京]]の長男として生まれ、幼くして明敏であり、叔父の[[蔡卞]]が自分の舅である[[王安石]]の元に蔡攸を連れていった際に難しい質問をして王安石を困らせたという<ref>楊万里『誠斎詩話』</ref>。[[元符]]年間に監在京裁造院の地位にあった時、当時は一介の皇族に過ぎなかった端王と親しくなる<ref name=sousi>『宋史』巻472姦臣伝・蔡京伝・付攸伝</ref>。後に端王が即位して[[徽宗]]となると、崇寧3年(1104年)に特に進士出身を賜って[[秘書郎]]に任ぜられた。ここで注目されるのは、父親の蔡京が徽宗の面識を得たのは、即位初期において[[垂簾聴政]]を行っていた[[欽聖皇后|向太后]]に近侍していたことをきっかけにしており<ref>『長編記事本末』元符3年4月戊戌条</ref>、蔡攸の昇進において父の影響が大きいとしても、彼が父の登用以前から一貫して徽宗の側にあったことは注目する点である。実際、蔡京は徽宗や反対派との対立で左遷された時期があったにも関わらず、蔡攸本人は直秘閣・集賢殿修撰・編修国朝会要・枢密直学士・龍図閣学士・[[侍読]]と中央の官職を歴任し続けて、『[[九域図志]]』の編纂にも加わっている<ref name=sousi/>。また、蔡攸は皇帝である徽宗から呼び捨てではなく「蔡六」という愛称で呼び<ref name=kaihen>『三朝北盟会編』巻56・靖康中帙・靖康元年9月15日条</ref>、また徽宗の皇后の一族で彼の寵愛を受けた劉氏という女性([[明節皇后]])を下げ渡されたとも言われている<ref>『朱子語類』巻140・論文下「詩」</ref>。
 
[[政和]]5年([[1115年]])に宣和殿学士が設置され<ref>『宋会要』職官7-10・政和5年4月20日条</ref>、蔡攸が初代の学士に任じられた<ref>朱彧『萍洲可談』</ref>。宣和殿は徽宗が日常活動の場にしていた施設であり、本来は[[宦官]]が直宣和殿に任じられて皇帝に近侍していたが、徽宗が蔡攸を近くに置くために新たに宣和殿学士の官職を設けたのであった。蔡攸は徽宗に近侍することで宮中の情報を父の元にもたらす役目を果たしていたが、政和6年([[1116年]])[[封禅]]を巡る意見対立から、徽宗が高齢の蔡京の通常の出仕を優免することで実質的な権力を剥奪を行うと、蔡攸の政治立場に変化が生じるようになった。政和7年([[1117年]])に宣和殿学士の上に宣和殿大学士が設置されると蔡攸が直ちに昇任され、蔡京が一を退いた後に親政を志向するようになった徽宗を補佐する立場に転じる事になる。[[宣和]]元年([[1119年]])、宣和殿は[[元号]]と被ると言う理由で保和殿に改称されるが、蔡攸の大学士の地位はそのまま維持されて淮康軍[[節度使]]に任ぜられた。その一方で、復権を図ろうとする父・蔡京や弟たちに対して、蔡攸は徽宗の側近として親政を支える立場からこれと対立するようになった。宣和4年(1122([[1122]])、当時軍権を握っていた[[童貫]]が河北河東路宣撫使として[[遼]]の都になっていた[[燕京]]遠征に向かった際に、徽宗は[[監軍]]として蔡攸を河北河東路宣撫副使に任じた<ref>『三朝北盟会編』巻56・宣和4年5月9日条</ref>。ところが、地方に派遣される官に就くと中央で皇帝に近侍する保和殿大学士は辞任しなければならなかった。そこで、徽宗は宦官の役職である直保和殿に、文官である蔡攸を強引に任じたのである(宦官は地方に派遣されても中央の兼職を辞める慣例がなかったため、徽宗は直保和殿に任じられた一般官僚も兼務ができると解したのである)。後世、後に[[南宋]]の[[陸游]]がこれを制度の紊乱であると徽宗を非難している<ref>『渭南全集』巻5「条対状三」</ref>。遠征は失敗に終わり、童貫は失脚したものの、蔡攸は副官であったものの監軍に過ぎないとして責任を問われることなく、翌年[[少師]]・領枢密院事に任じられて宰相の末席に列した。
 
だが、遼が新興の[[金 (王朝)|金]]に滅ぼされ、その金が北宋に侵攻すると事態は急変する。徽宗は蔡攸・[[呉敏]]・[[李綱]]とともに図り、急病を口実として皇太子([[欽宗]])への譲位を図った<ref>『朱子語類』巻130・本朝4</ref><ref>『長編記事本末』巻146「内禅」宣和7年12月庚申条</ref><ref>岳珂『程史』巻8「玉虚密詔」</ref><ref name=kaihen/><ref>『三朝北盟会編』巻25・宣和7年12月22日条</ref>。その直後、徽宗は蔡攸とわずかな宦官だけ連れて[[開封]]を脱出するが、そのため徽宗が[[鎮江]]で自立するとの噂が立った。このため、欽宗や李敏ら開封にいた首脳たちは徽宗や蔡攸らの身の安全を保障する事で徽宗らを開封に呼び戻すが、徽宗は龍徳宮に押し込められ、蔡攸は父や童貫らとともに罪状を論ぜられた上で弟の[[蔡翛]]とともに[[海南島]]に流され、次いで死を命ぜられた<ref>『宋史』欽宗本紀・靖康元年9月辛未条</ref><ref>『三朝北盟会編』巻54・靖康元年9月壬申条・同巻56・靖康元年9月19日壬午条</ref>。海南島で死を命ぜられた時、蔡翛は覚悟を決めて自ら毒をあおったが、蔡攸は躊躇した上で左右の者に縄で首を絞めさせて命を絶ったとされている<ref>周輝『清波雑志』巻2</ref>。享年50。