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財政が好転し、また実収が20万石ともそれ以上ともいわれる庄内に目をつけたのが[[武蔵国|武蔵]][[川越藩|川越藩主]]・[[松平斉典]]である。当時[[川越藩|川越]][[松平家]]は度重なる転封で莫大な借財を抱え、また水害等で藩領内が荒廃し財政が逼迫していた。そこで、内実の豊かな庄内への転封を目論んだわけだが、斉典は11代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉|家斉]]の第二十一子紀五郎(のちの[[松平斉省|斉省]])を養子に迎え、養子縁組のいわば引き出物として、当時、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となっていた[[徳川家斉|家斉]]に庄内転封を所望した。このため、松平を[[川越藩|川越]]から庄内へ、庄内の酒井を[[越後]][[越後長岡藩|長岡]]へ、[[越後長岡藩|長岡藩]]の[[牧野忠雅]]を[[川越藩|川越]]へという「[[三方領知替え|三方領地替え]]」という計画が持ち上がった。
 
これに対し、[[天保]]12年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]([[1841年]][[2月11日]])庄内藩の領民は[[江戸]]へ出向き幕府に領地替え取り下げを直訴した([[天保義民事件]])。この行動は本来ならば死罪である。また従来、領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された。同年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]([[8月28日]])家斉・斉省の死去も伴い幕命は撤回となった。この前代未聞の幕令撤回を成功させたのは百姓一揆です。村内安全と五穀豊穣を祈願する祀りごとをすべての農村が創りだしていたのです。冬半年は農閑期であったのです。荘内農村は八百万の神々を村に招来してどの村も三十以上の祀りごとを創出していたのです。荘内農村の祀りごとは村衆の言論の自由と結社の自由を育て平泉東北政権を作り出していたのです。天保十一年、十二年、荘内百姓は幕府中央だけでなく水戸藩や仙台藩にも20万石の庄内藩が7万石の長岡へ移される理由がないことを訴えたのです。この大義名分の歎願陳情を誰も否定できなかったことが功を奏したようです。大御所も川越藩が養子に迎えた斉省も亡くなったこともあってか三方領地換えはなかったことにされた。本間辰之助や文隣和尚ら一揆の指導者は藩が百姓衆を処罰することがないように改めて「雖為百姓不事二君」の止むに止まれぬ心を強調した。天保義民事件とか藩主擁護の行動とかいわれるが農民衆は実利を選んだのだ
 
 
この三方領地替えの撤回は、後に[[印旛沼]]堀割工事の際に、懲罰的な[[御手伝普請]]を庄内藩が強いられる遠因となった。
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