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南宋の[[紹興 (宋)|紹興]]5年・金の[[天会 (金)|天会]]13年(1135年)、邢秉懿は[[洗衣院]]から解放された。その後、男子を1人産んだ。紹興9年・金の[[天眷]]2年(1139年)、金で死去した。紹興12年・金の[[皇統 (金)|皇統]]2年([[1142年]])、韋賢妃が南宋へ帰還する時に、死去の事実が高宗に伝えられた。[[諡]]は初め「懿節」であった。[[孝宗 (宋)|孝宗]]の時代に「憲節」へ改諡された。
 
初め、[[曹勛]]は金から南宋へ逃亡の時に、邢秉懿は1かの耳輪を預かって、「耳輪のように夫婦団欒を願い」と言った。高宗は帝位が動揺すると考え父帝と兄帝の帰国を許可しなかったが、邢秉懿に関しては積極的であったという。しかし高宗が即位すると、側女の[[潘賢妃|潘氏]](元懿太子の母)を皇后に立てようとも考えられた。又、南宋時、高宗は逃亡中に驚愕から性的不能になったと噂した。
 
== 伝記資料 ==