「三皇五帝」の版間の差分

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{{中国の歴史}}
'''三皇五帝'''(さんこうごてい)は、古代中国の神話伝説時代の8人の帝王<ref>[http://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%9A%87%E4%BA%94%E5%B8%9D コトバンク「三皇五帝」]</ref>
 
三皇と五帝に分かれ(誰が該当するかについては諸説ある)、'''三皇'''は[[神]]、'''五帝'''は[[聖人]]としての性格を持つとされ、理想の君主とされた。
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==五帝==
誰をもって五帝となすかは下の表に示すように様々であり、その話の内容に付いても様々な前後矛盾がある。『史記』「五帝本紀」に於いて五帝を一応歴史の範疇内に置いた司馬遷であるが、「黄帝伝説は史実とは思っていないが、黄帝伝説のあるところに限って共通の民俗風土があり、いくばくかの史実が紛れ込んでいることは否定できない。よって、これらを記録することに価値を見出すものである」と断りを入れている。
 
{| borderclass="1" cellspacing="0wikitable" style="text-align:center;"
||![[伏羲]]||!![[神農]]||!![[太昊]]||!![[炎帝]]||!![[黄帝]]||!![[少昊]]||!![[センギョク|顓頊]]||!![[コク|嚳]]||!![[尭]]||!![[舜]]||!![[禹]]||!![[天乙|湯]]|| !!出典
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|||||||||1||||2||3||4||5||||||『大載礼記』・『[[史記]]』
||[[伏羲]]||[[神農]]||[[太昊]]||[[炎帝]]||[[黄帝]]||[[少昊]]||[[センギョク|顓頊]]||[[コク|嚳]]||[[尭]]||[[舜]]||[[禹]]||[[天乙|湯]]|| 
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|1| |2| || || |3|1|| ||2||3||4||5|| || ||『大載礼記[[戦国策]]』・『[[史記易経]]』
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||1||2|1| || 2||3|| 4|| 5|| ||4||5|| || ||『[[戦国策礼記]]』・『[[易経淮南子]]』
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|| || |||||||1||2||3||4||5|| || || || || ||『[[礼記]]』・『[[淮南子世経]]』
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|| || || || || |||||1||2||3||4||5|| || ||『[[三統経]]』
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|| || || || || || || ||1||2||3||4||5||『[[三統経]]』
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|| || || || ||1||2||3||4||5|| || || ||『[[資治通鑑外記]]』
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==皇帝という称号の発祥==
紀元前221年、[[秦]]の[[始皇帝]](当初は秦王)嬴政は、[[戦国七雄|他の6国]]を攻め滅ぼし中国統一した後、それまでの「王」という君主の称号より上位の称号を[[王綰]]・[[李斯]]ら重臣達に諮問させた。重臣達は、古代の五帝を超越したとして三皇のうち最上位である「秦皇」の称号を使うよう推挙したが、嬴政は自分がこの三皇五帝より尊い新たな存在であるという考えから、皇と帝を合わせた「[[皇帝]]」と言う新しい称号を造語し、自分に対する呼び名として使った(『[[史記]]』など)
 
以降、中国の支配者は皇帝を名乗ることになる。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 関連項目 ==
* [[中国神話]]
* [[長江文明]]  -  [[黄河文明]]  -  [[遼河文明]]
* [[石器時代]]
** [[新石器時代]]