「近藤貞雄」の版間の差分

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海ボチャン (会話 | 投稿記録)
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巨人のエースとして活躍したこともあったが、退団の経緯などの事情から巨人OB会には一度も出席しなかった。
 
彼自身が「瞬間湯沸かし器」と自称していたとおり、審判に駆け寄っての抗議も多く、その際に両手を後ろに回すスタイルが多くのプロ野球ファンの共感を呼び、「日本の[[ビリー・マーチン]]」と呼ばれた。審判団から退場を命じられた数も多く、[[1993年]]に[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]の[[根本陸夫]]監督に破られるまで、退場者の最高齢記録を持っていた(現在は[[2005年]]に[[仰木彬]]が更新)。1986年[[9月8日]]の対巨人戦([[後楽園球場]])で[[有田修三]]のセーフティー・[[スクイズプレイ]]がセーフと判定されて敗戦したことについて「今日は審判で負けた」の名と発を残した。なお、翌日の新聞に「有田はヘッドスライディングしたのでなく、一塁に手前で転んだだけ」とコメントが載った。また、[[平成]]元年(1989年)のプロ野球において、初の退場を命じられたのは、[[大正]]生まれの近藤であった。しかしながら実際のところは審判との罵り合いはファンサービスととらえており、中日・大洋の監督時代に2度の退場宣告を受けている[[柏木敏夫]]とは実際にはアドバイスや議論を重ねる間柄だった。近藤が日本ハム監督になると、柏木をつかまえて「お前も[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]に来て一緒になんかやらかして、客集めしよう」と声をかけたこともあった。日本ハム時代は、[[前川芳男]]が抗議のターゲットであった。
 
その一方で、近藤は論理的、システマティックな野球観を持っていた。例えば不要な投げ込みの禁止、自主練習を重視するスタイルによるキャンプでのだらだらした長時間練習の廃止、判で押したような[[犠牲バント|バント]]作戦の否定、「[[アメフト野球]]」「[[プラトーン・システム|ツープラトン]]野球」と言われた攻撃と守備で選手を大きく入れ替える戦術などは、その野球観の代表例である。
 
1982年のシーズン最終戦、優勝を賭けた試合前にベンチ裏にビールをずらりと並べ、緊張するナインに「ぐいっと引っかけて度胸を据えて行け」と言ったが、ナインは誰も手を付けず、近藤一人だけが飲んでいたという逸話がある<ref>[[玉木正之]]「プロ野球大事典」[[新潮文庫]]</ref>が、[[鈴木孝政]]が「(この試合は[[小松辰雄]]が完投した事もあり、)用なしだから裏でビールを飲んでた」と発言している<ref>「中日ドラゴンズ 黄金時代の記憶」[[ベースボール・マガジン社]]</ref>。
 
1981年にコーチ兼任になった[[星野仙一]]とはもとより信頼関係は低かったが、中日が優勝した1982年には、登録抹消はされなかったものの衰えが顕著になり登板機会が大幅に減少した。結局このことも相まって、確執に輪をかけた。星野はこの年限りで引退したが、その後も二度中日監督を務めるなど球団内で圧倒的な権力を誇っていた。しかし彼は阪神監督就任の際に中日OB会を除名されることとなった。近藤は「(中日OB会から)星野を追い出したのが俺の最大の功績だ」と親しい知人に漏らしていた。こうした経緯から、星野は近藤の訃報を聞いても通夜・葬儀への出席をしなかったが、死去翌日の一部新聞([[読売新聞]][[読売新聞大阪本社|大阪本社]]版等)には追悼のコメントを寄せていた。<br />しかし、近藤は、著書で星野について、現役時代や監督としての姿勢を高く、評価しており、前述の1982年の引退勧告も、これからの中日のメリットのことを考えてのことだったこともあり、複雑な心境だったと述べていた。<ref>『退場がこわくて野球ができるか』より</ref>
 
また、監督就任時には[[高木守道|髙木守道]]に「君はいいコーチになれるよ」と言い、引退するように仕向けて実現させており、星野と同年には[[木俣達彦]]も引退させている。代わって投は[[小松辰雄]]や牛島和彦ら、打は平野謙や[[中尾孝義]]らを登用している。投打共に球団のスター選手を引退させ、世代交代を進める役回りを果たしたと言える。