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南宋の[[紹興 (宋)|紹興]]5年・金の[[天会 (金)|天会]]13年(1135年)、邢秉懿は[[洗衣院]]から解放された。その後、男子を1人産んだ。紹興9年・金の[[天眷]]2年(1139年)、金で死去した。紹興12年・金の[[皇統 (金)|皇統]]2年([[1142年]])、韋賢妃が南宋で高宗と再会した際に、死去の事実が伝えられた。[[諡]]は初め「懿節」であった。[[孝宗 (宋)|孝宗]]の時代に「憲節」へ改諡された。
 
邢秉懿の死が明らかになった翌年の紹興13年([[1143年]])、側室のうちから呉氏({{仮リンク|[[憲聖慈烈皇后|zh|宪圣慈烈皇后}}]])が新たに皇后に立てられた。
 
== 高宗の皇后遙封を巡って ==
『[[宋史]]』憲節皇后伝に記された、高宗の邢秉懿に対する「16年不娶」の愛の誓いは潤色が加えられている。高宗は帝位が動揺すると考えて父帝と兄帝の帰国は婉曲に拒んだが、邢秉懿に関しては積極的であったという。しかし『宋史』潘賢妃伝によると、高宗は側女の[[潘賢妃|潘氏]]([[趙フ|元懿太子]]の母)を皇后に立てようとも考えた<ref>[[呂好問]]の諫言のため沙汰やみとなった。その後、太子は薨去し、潘賢妃も高宗にかえりみられなくなった。</ref>。また南宋では、高宗は逃走中に金軍の襲撃を受けた際のショックで性的不能になった<ref>『朝野遺記』</ref>、あるいは[[ペドフィリア]]<ref>『鄧粛撰奏札子』によると、靖康の変後、高宗はすぐさま美貌の幼女多数を強引に内廷へ召し集めた。</ref>との噂も立った。邢秉懿に対する夫婦愛は、それらに対するカムフラージュの可能性もある。
 
邢秉懿本人に関しては、以下の逸話がある。