「ナラ・ブーパール・シャハ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
12行目:
このような三都錯乱政策ののち、[[チベット]]交易の要衝たる[[ヌワコート]]の支配を試み、[[1737年]]に攻撃をおこなった<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=7PP1yElRzIUC&pg=PA5&dq=1743+nuwakot&hl=ja&sa=X&ved=0CB0Q6AEwAGoVChMIp965meeHxwIVhqCUCh3k5QXk#v=onepage&q&f=false A Study in Nepali Economic History 1768-1846 - Mahesh Chandra Regmi - Google ブックス]</ref>。だが、マッラ朝連合軍の反撃で失敗したためその後は友好策を取り、ナラ・ブーパールはバクタプル王[[ラナジット・マッラ]]と、息子の[[プリトビ・ナラヤン・シャハ]]はバクタプル王太子[[ヴィーラヌリシンハ・マッラ]](ラナジットの息子)、カトマンズ王太子[[ジャヤプラカーシャ・マッラ]]とそれぞれ盟友関係を結んだ<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、pp.489-490</ref>。
 
[[1743年]][[4月3日]]、ナラ・ブーパールは死亡し、プリトビ・ナラヤンが王位を継承した<ref name="Nepal 4"/><ref name="佐伯489">佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.489(ここでは没年を[[1742年]]としている)</ref><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=7PP1yElRzIUC&pg=PA5&dq=1743+nuwakot&hl=ja&sa=X&ved=0CB0Q6AEwAGoVChMIp965meeHxwIVhqCUCh3k5QXk#v=onepage&q=1743%203 April203April&f=false A Study in Nepali Economic History 1768-1846 - Mahesh Chandra Regmi - Google ブックス]</ref>。
 
==脚注==