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信長の死後、天正10年([[1582年]])の[[山崎の戦い]]において、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に属して7,000石を加増されたという(『朝野雑載』)。その一方で紀伊国北部に侵攻し、[[中村山城 (紀伊国)|中村山城]]などを攻め落とした。また志摩国[[英虞郡]]の荷坂峠以南を紀伊国牟婁郡に編入したため、現在の[[尾鷲市]]と[[紀北町]]、[[大紀町]]の錦地区が紀伊国の一部となった。
 
秀吉の[[紀州征伐]]に対して当初、抵抗の姿勢を示したが、天正13年([[1585年]])には降伏して本領を安堵された。紀州平定後の[[検地]]に反対する[[地侍]]や[[農民]]の[[一揆]]には、秀吉方として一揆の討伐に参加している。その後、[[四国攻め]]や[[小田原征伐]]、[[文禄・慶長の役]][[晋州市 (慶尚南道)|晋州]]攻めや[[蘇州古城]]守備に574人を動員)に[[熊野水軍]]を率いて従軍し活躍、天正19年([[1591年]])には、熊野惣地に任命された。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、[[石田三成]]の勧めで[[牟婁郡]]8万石と引き換えに義父・[[九鬼嘉隆]]と共に西軍に属し約350を率いて[[伊勢国|伊勢]]へ侵攻するが、味方主力の敗報を聞き逐電し、同年10月には居城・新宮城も東軍に属す[[和歌山城]]主・[[桑山一晴]]に攻め落とされ所領を失ったため、天正16年([[1588年]])の[[北山村|北山]]攻めの際に築いた[[京城 (紀伊国)|京城]]に落ち延びたが、紀伊国・加田村に蟄居した。