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引退後の翌{{by|1958年}}に二軍監督就任。{{by|1960年}}から{{by|1961年}}途中まで監督。その後、約10年は[[テレビ朝日|NET]]と当時の系列局・[[毎日放送]]の野球解説者となり現場から離れていたが、{{by|1972年}}ヘッドコーチに就任し、同年4月21日から監督代行(名目上の監督は[[村山実]]だったが成績不振を理由に事実上投手専任となったために、指揮権を譲られたものである)となる。最終的には2位でシーズンを終了する。村山が同年限りで現役を引退したため、{{by|1973年}}からは正式な監督に就任した。
 
前年に続いて2位という成績を収めたが、残り2試合でマジック1という状況から優勝を逃し、最終戦に眼前で[[読売ジャイアンツ|巨人]]の逆転[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]を許した。試合終了から約2時間後、暴動状態となった観客を鎮めるために警察の要請で「こんな結果になって誠に申し訳ない」と陳謝する一幕もあった。<br />この年5月、金田は投手の[[権藤正利]]に対し、「サルでもタバコを吸うのか?」という暴言を口にした<ref>江夏豊によると広島遠征時に起きたできごとであるという(『左腕の誇り 江夏豊自伝』(草思社、2001年、P152 - 153))。</ref>。そしてシーズン終了後の1973年11月23日、阪神のファン感謝デー終了後に甲子園球場内で権藤から、その暴言に対する謝罪を求められても受け入れなかった為、殴打された<ref>場所については、1973年11月25日のサンケイスポーツと1973年12月2日の読売新聞は「ロッカールーム」と記し、江夏豊は『左腕の誇り』で「監督室」と述べている。</ref>。権藤に対してはリーグから厳重戒告処分、球団からは謹慎処分が下されたが、権藤はそれ以前から引退を決めており、実働20年の連盟表彰を捨てての殴打事件だった(権藤は大変温厚な人物として知られていた。最終的には自由契約で退団)<ref>読売新聞1973年12月2日、12月13日</ref><ref>江夏豊は『左腕の誇り 江夏豊自伝』でこのときの経緯を詳細に証言している(同書P153 - 154)。</ref>。権藤だけでなく、同年8月には[[鈴木皖武]]にも殴られた他、村山の大学の後輩に当たる[[藤井栄治]]や[[江夏豊]]との確執など一部の主力選手との対立が激化した。シーズン終了後の11月、江夏には「金田監督の下ではプレーができない」と表明されて内紛が表面化。藤井は権藤に対しての発言が発生する以前から金田に対する不満があり、シーズン終了後にトレードで[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ]]に移籍した。12月に「江夏を抱えてのチーム作りに自信がない」と辞意を表明した金田だったが、両者の意見をそれぞれ聞く形で収拾に乗り出した戸沢一隆球団代表によって、最終的に金田は続投、江夏もチームに残ることとなった。翌{{by|1974年}}は前半首位で折り返したものの、最終的には4位に後退し監督を辞任した。監督としては、権藤・鈴木の事件などトラブルが多かった。
 
監督辞任後は野球解説者・評論家やプロ野球球団職員・指導者や、アマチュアでも元プロ野球選手よる指導が認めはなれていた少年野球・軟式野球の団体役員・指導者などの活動をせず、プロ野球関連から一線を引く。小武内(おぶない)改姓しなり、大阪でステーキ屋を営む。1992年12月5日、急性[[心不全]]のため死去した。[[享年]]72。葬儀は密葬だったこともあり、球界関係者の姿は多くはなかったが、1972年にヘッドコーチとして入閣した時の監督だった村山は葬儀に参列した。
 
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