「田﨑史郎」の版間の差分

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田中派の担当になって以来、[[小沢一郎]]とは毎晩のように呑む間柄だったが<ref>[[#田崎 2009|田崎 2009]] p.138</ref>、1992年1月以来小沢から一方的に遠ざけられて、取材できない状態になる<ref>[[#田崎 2009|田崎 2009]] p.144</ref>。[[1993年]]に成立した[[細川内閣]]で最大の実力者となった小沢についてマスメディアが伝える小沢像は虚像であり、自分の知っている小沢の実像を伝えたいとの思いから、田崎は『[[文藝春秋]]』1994年10月号に「小沢一郎との訣別」と題した記事を発表した<ref>[[#田崎 2009|田崎 2009]] pp.149-150</ref>。
 
[[1982年]]の自民党総裁選挙の際に田中派が[[中曽根康弘]]を支持した際の「担ぐ御輿は軽くてパーがいい」や小沢が自民党幹事長時代に[[海部俊樹]]総理を評した「海部は本当に馬鹿だな。[[宇野宗佑|宇野]]の方がよっぽどましだ」など、小沢一郎のこれまでの数々の[[オフレコ]]発言を明かして<ref>[[#田崎 2009|田崎 2009]] pp.142-143</ref>話題になる<ref>「小沢オフレコ暴露記者 タブー破りの真相」『[[週刊朝日]]』1994年9月30日号</ref><ref>^[[櫻井よしこ]]「オピニオン縦横無尽 文春に"小沢一郎との訣別"を書いた田崎史郎氏の記者失格」『[[週刊ダイヤモンド]]』1994年9月24日号</ref><ref>「ジャーナリストの現場から 記者クラブ制度の罪と罰 小沢一郎番記者『オフレコメモ』公開への是非」『[[週刊現代]]』1994年10月1日号。</ref>。小沢サイドからは何の反応もなかったが、[[日本新聞協会]]は時事通信にオフレコを破ったことに事情説明を求めてきた<ref>[[#田崎 2009|田崎 2009]] p.154</ref>。時事通信はオフレコを破った田崎に対して、2週間の出勤停止とその分の給料の減額と翌年のボーナスを減額する処分を下した<ref>[[#田崎 2009|田崎 2009]] p.151</ref>。
 
田崎は、オフレコ破りをすることで、相手に取材出来なくなるなら、オフレコ破りはしない方がいいというスタンスであったが<ref>[[#田崎 2009|田崎 2009]] p.230</ref>、既に小沢からは何の通告もなく一方的に無視されて事実上の取材拒否となっており、オフレコ破りに何の障害もない状態であった。なお田崎は、小沢から取材拒否されるようになった原因について、田崎自身の辣言を小沢が嫌ったため、小沢の政敵となった[[梶山静六]]と田崎自身が親しくしていたため、などの推測を行っている<ref>[[#田崎 2009|田崎 2009]] p.148</ref>。
 
== 著書 ==