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[[画像:Elizabeth_Truman.png|frame|ベス・トルーマン(グレタ・ケンプトン画、[[ホワイトハウス]]所蔵)]]
 
'''エリザベス・バージニア・ウォーレス・トルーマン'''('''Elizabeth Virginia Wallace Truman''', [[1885年]][[2月13日]] - [[1982年]][[10月18日]])は、[[アメリカ合衆国大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]の妻1945年から1953年までアメリカの[[ファーストレディ]]であった。
 
== 生い立ち ==
エリザベスはデビッド・ウォーレスとマーガレット「マッジ」ゲイツ夫妻の娘として1885年2月13日、[[ミズーリ州]][[インディペンデンス (ミズーリ州)|インディペンデンス]]で生まれる。エリザベス・バージニアの洗礼名を与えられて、「ベッシー」の愛称で育てられた。1890年に家族とともに引っ越してきたハリー・トルーマンは、彼女に対する第一印象 -「金色のカール」と「最も美しい青い目」- を常に忘れることはなかった。彼らの知人は、トルーマンにとって「世界でたった一人の女の子」であったと語る。彼らは5年生から高校まで同じ学校に通った。
 
高校卒業後、エリザベスは[[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]でミス・バーストウ教養学校に通った。[[1903年]]に父親が自殺し、彼女は母親と暮らすためにインディペンデンスに戻った。
 
== 結婚と家族 ==
[[第一次世界大戦]]がトルーマンの慎重な求愛を変えた。トルーマン[[中尉]]はエリザベスに求婚し、彼が[[1918年]]に[[フランス]]の戦場に赴く前に婚約する。彼らは1919年6月28日に結婚し、ウォーレス夫人の家で暮らし始めた。ここでエリザベスは数度の流産の後、[[1924年]]に一人娘のメアリー・マーガレットを出産した。
 
トルーマンが政治活動を始めたとき、エリザベスは共に演説旅行に赴き、妻として聴衆の前に現れた。[[1934年]]にトルーマンは[[アメリカ合衆国上院|上院議員]]に当選し、彼らは[[ワシントンD.C.]]に移り住む。トルーマンは[[1944年]]に[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]に選ばれ、[[1945年]]4月12日に[[フランクリン・ルーズベルト]]が急死すると[[大統領]]に就任する。エリザベスは状況の急変に落ち着いて対応し、新しい[[ファーストレディ]]となる。
 
== ファーストレディとして ==
エリザベスは[[ホワイトハウス]]ではプライバシーが保たれないことに気がついた。
 
ホワイトハウスはトルーマンの2期目に再建されたが、一家は[[ブレアハウス]]で生活し最小限の公的生活を送った。夫の大統領の任期大半、エリザベスは義務として滞在しなければならなかった時期をのぞいてほとんどワシントンで暮らさなかった。
 
エリザベスは前任者の[[エレノア・ルーズベルト]]と比較された。ルーズベルト夫人と異なり彼女エリザベスは、女性雑誌から多くの申し込みの後に1度だけ記者会見を開催した。記者会見では多くの質問が先立って提出されたが、そのほとんどが「ノー・コメント」の回答であった。エリザベスは娘のマーガレットに大統領になってほしいかとの質問には「あり得ない」と答えた。大統領が退任した後何をしたいかとの質問には「インディペンデンスに帰る」と答えた。しかしながら彼女は[[1953年]]の後、ワシントンに住むという考えも抱いていた。
 
== 後年 ==
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エリザベスは1982年に死去し、ハリー・S・トルーマン図書館の庭にある夫の墓のそばに埋葬された。97歳で死去した彼女は最長命のファーストレディであり、その記録は未だ破られていない。彼女より長命であった大統領の親族は、1995年に104歳で死去したローズ・フィッツジェラルド・ケネディである。
 
== 関連項目 ==
* [[アメリカ合衆国のファーストレディの一覧]]
 
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{{アメリカ合衆国のセカンドレディ}}
{{アメリカ合衆国のファーストレディ}}
 
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[[Category:アメリカ合衆国の副大統領夫人]]
[[Category:アメリカ合衆国の大統領夫人]]
[[Category:アメリカ合衆国の副大統領夫人]]
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[[Category:ミズーリ州の人物]]
[[Category:1885年生]]